飃の啼く…第13章-3
「あ…その痣は…」
彼女はうつむいた。何も言わず、真一文字に結んだ唇は言葉より多くのことを語っていた。
「私の主人は、陰陽の気の使い手…私は、その男の式神として使えている女郎蜘蛛、静音(しおん)。」
主人とは、夫のことではなくその字のとおり「主」という意味。それでも…
「…その人のこと、愛してるのね。」
彼女は静かにうなずいた。
「私は一介の蟲。それはよく存じているつもりでございます…それでも…それでも私は…」
そこで言葉は途切れ、有無を言わせぬ決然の表情が、彼女の涙を隠した。
「あのお方に、これ以上の悪行を重ねなせるわけには参りませぬ。あのお方は、澱みのために自らの生を汚しておいでなのです。」
澱み、という単語に、飃が即座に反応した。
「澱みに加担しているのか?お前の宿主は?」
目を細めて、飃がまじまじと静音を見る。
「その通りに御座います。」
静音は、全ての目で飃を見返した。切実な願いと決意をこめて。
この頼みを断る理由は無い。でも…
「宿り主を滅ぼせば…お前も消えるぞ。」
飃が、感情の無い声で聞く。その覚悟があるのか?という、厳しい問いだ。
「承知の上…にございます。」
目の前で切り結ぶのを見ているような心境だった。飃が深く息をついて、
「ならば良い。」
と言うまで、抜き身の剣の切っ先のような視線は揺らぐことは無かった。
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【 彼とは、よく酒を酌み交わしたものだ。
酒は、禁欲の修行生活で生徒たちに許された唯一の嗜好品だった。
群れて飲む酒は楽しかったが、それ以上に、彼と二人で語りながら飲む酒は美味かった。
杯に舞い落ちた桃の花びらに、ふっとよぎった彼の微笑は、やっと15を迎えた青年に、奇妙な感情をもたらした。
彼は、よく歌を歌った。
何処のものとも知らない異国の言葉で。
何を歌っているのかと問うと、夜をさらに美しいものにする歌だという。其のまま黙って聞いていると、やがて夜が明けてしまった。
なんだ、美しくなる前にあけてしまったではないか、と笑うと、彼は立ち上がって窓の外を見た。
夜は美しい。だが、朝はもっと美しい。
そう言って、部屋を後にした。】
『 あと 3 匹 』