神の棲む森-7
まるで作り物のような金色の星たちが、青い闇に張り付いていた。僕は彼女を先ほど別れた場所に呼び戻した。時間は残されてはいない。この世界の住人が目を覚まし、僕の居場所を取り去ってしまう前に。
「どうしたの?俊」
彼女が僕の顔を覗き込んだ。僕は下唇を噛んだ。大丈夫、彼女は傷つかない。傷つくのは、僕のほうだけなのだ。それだけが救い。
「初めて、会ったときさぁ」
「うん?」
「僕が本を読んでたって言ったろ?」
「うん。読んでたよ」
「あれね、マディソン郡の橋だ」
「何?」
「マディソン郡の橋」
「小説?」
「あぁ、恋愛小説だよ」
「思い出したの?その時のこと」
「思い出した」
思い出していない。僕は、その時のことを思い出していない。けれどきっと、その本は『マディソン郡の橋』だったに違いない。僕が何度も何度も読み返した、あの切ないラブストーリー。
「どんな話?」
「ある家族がいるんだ。夫と妻と子供の、平和な家庭さ。ある週末に夫と子供が出かけていくんだ。そして二日間、妻が留守番することになる」
「それで?」
「そこに、あるカメラマンが訪ねてくる。そして二人は愛し合うんだ」
「それって不倫?」
「そうだね。けれどそれは、その妻にとって本当の愛だった。夫との間にあるそれではなく、求め続けてきた真実の愛だった」
僕は彼女を見据えた。その隣にいる僕を想像した。
「そして二日が過ぎ、夫と子供が帰ってくる直前、カメラマンは言う。一緒に行こう、と」
「奥さんはどうしたの?」
彼女の瞳が輝いた。その隣にいる僕に、僕は嫉妬した。
「悩んで、悩んで。彼女は行かなかった」
行かなかったんだよ、礼子。
「そして数十年後、一人になった老婆の元に、あのカメラマンの遺品が届くんだ。中にはあの日に撮った彼女の写真とカメラ。手紙には、こうあった」
――― 私の人生は、あの二日間の為に
「素敵な話ね」
「何度も読み返した本さ」
でも、哀しいね。彼女は言った。
無風が僕らの間に横たわった。
そうだね、だから僕は哀しいんだ。
たった一日で僕は君に惹かれて、そして人知れず消えていく。
けれど一つ違うことがある。
僕は君に何も残せないんだ。
何も、残せないんだ。
パリン。
視界が割れた。二つに割れて、片側が黒く染まった。
「礼子、僕が入院していた場所、覚えてるかい?」
「もちろんよ」
「それじゃあ、そこに行ってみてくれる?」
「今から?」
「うん、今から」
「どうして」
パリン。
更に視界は狭まり、世界はほぼ黒に包まれた。残された光はぐにゃりと歪む。
「いいから行ってくれ」
君が愛した人が、目を覚ますんだ。
そして君を愛した人が、目を失くす。
だから早く行ってくれ。
「・・・・分かったわ」
くるり、と彼女は身を翻した。僕を形作る粒子性が確定性を失くしていく。波のように揺れ始め。
「ねぇ」
去り際に、彼女は言った。
「俊。私、あなたが好きよ。あなたが好き」
それは今の僕?
それとも今までの僕?
聞こうとした。
けれど声は出なかった。
彼女が振り返った先に、僕はいなかった。
そして俊一は目を覚ます。
気付くとガードレールに寄りかかる様にして僕は倒れていた。白いガードレールの向こうには緑の森が、黒い闇を造っていた。金色の月が、真っ青な僕の顔を照らす。僕は帰ってきたのだろうか。ここは本来の世界なのだろうか。
胸ポケットからタクシーの運転手の名紙を取り出した。
「あの、もしもし」
「はい、**タクシー協会、神部ですが」
「あの、先日**バス停まで送ってもらった者なんですけど」
一瞬の静寂が鳴る。
「あぁ、神の棲む森に行ったお兄さんね。あいよ、今から迎えに行くからちょっと待ってて」
携帯電話を切り、ガードレールに腰を預けた。どうやら今の口ぶりからすると、この世界は僕が居るべき場所に違いない。体が異様に重かった。ガードレールにもたれかかる様にして、月を見上げる。あの月は、世界に共通なのだろうか。僕が越えてきた世界は、その空間軸が異なっているだけで、時間軸は一緒なのだろうか。
そうならば、あの月は、息子の目覚めを待つ父親の姿を、恋人の回復を祈る女性の姿を、照らしていてくれているのだろうか。
僕には分からない。
けれど、そうであったらいいと思う。
そしてそんな彼らの記憶の片隅に、僕が残っていてくれたらいいと。
切に願うのだ。