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神の棲む森
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神の棲む森-1

人は無数の選択肢の中から、絶えず一つを選び取って生きている。
今、ここにいる自分。
そして別の選択肢を選んだ自分。
それは同等に存在しうる。
無限の自分と、それが生きる世界。

『神の棲む森』

「あるいは、それは可能かもしれんな」
親父はそう言った。
僕は全く理解できずにいた。
「いいから聞け。これはお前が大嫌いな量子力学的問題だよ。お前はあの壁をすり抜けることができるか?」
言って部屋の白い壁を指差した。
「出来るわけないじゃないか」
僕は笑いながら答える。「幽霊じゃないんだから」
「例えばとても小さな世界を考える。万象の中で極小のスケール、電子の話だ。電子は、とても薄い板ならすり抜けることができるのだよ」
「はぁ?何言ってるんだよ、仮にも物理学者が。固体が固体を素通りするはずないだろう?」
親父はコップに残ったコーヒーをすすった。
「私たちはな、固体であり、そうではないのだよ。それが量子の始まりだ。全てのものは粒子性と波動性を持っている」
僕は眉間に寄った皺を伸ばした。
「もっと簡単に言ってくれ」
「例えば音。これは電波、波の性質を持っている。だから壁を通しても鼓膜を振るわせることが可能だ。これと同様のことが私たち人間にも起こりうるという事だ」
「人が壁をすり抜ける?よしてくれよ」
「そうだ、冗談に聞こえるかもしれんが、万物はそうできている。ただし条件はある。普通はそんなことは有り得ない。さっき言ったように、それにはサイズが重要なんだ。壁に対して、透過する対象は無視できるほど小さくなければならない」
そこまで聞いて、僕は親父が言わんとすることをようやく理解した。
「つまり、その例えに当てはめると電子が僕で、壁が・・・」
「運命だ」
親父は何か物理屋とは程遠い言葉を発した。
「それで」親父は、机のうえに置かれた写真に視線を向けながら言った。
「お前がいた世界では、君江は元気にしているのか?」


一度、そこに足を踏み入れたものは二度と帰ってこれないと言う。
噂話のような実話がある。
登山家が姿を消し、捜索隊が消息を断ち、テレビスタッフが局に戻ってくることは無かった。
『神隠し』
妙に現実離れしたその言葉は、僕の住む街の人々にとって日常的な意味合いを持っていた。
ある山の麓に広がる、黒々とした森。人を飲み込むその様を誰もが恐れ、近づこうとはしない。
神の棲む森。
神は人をどこに隠すのだろうか。
森はどこに続いているのだろうか。
真実は闇の中。
だから僕は、その闇を見ようと考えた。大学2年の夏。憧れていたキャンパスライフには、思っていたほどの驚きはなかった。続いていく日常。変わらない景色。まるで永遠の一本道を一人で歩いているような感覚に溜め息が漏れる。
変えたかった。
劇的に、今の暮らしを。
朝、目を覚まし、顔を洗ってすぐに大学の講義のための教材が入った鞄を肩に提げた。台所に行くと、母が朝食の支度をしていた。
「俊一、ご飯は?」
「今日はいらないよ」
見ると、母の表情は少しやつれているようだった。
玄関のドアを開けるところで、親父に話しかけられる。
「今日は早いな、俊一」
「あぁ」
その次の言葉を待ったが、僕らの間には交わすべき会話があるはずも無かった。
「・・・行ってきます」
言って玄関を出る。
随分前から、家族内の会話は途切れがちになっていた。母から笑顔をとってしまうだけで、もう僕と親父を繋ぐ架け橋は無くなってしまった。親父は僕が通う大学の教授である。とは言っても大学内で親父と顔を合わせることは少ない。親父は物理の理論を教え、僕は経済を学んでいるからだ。
大通りに出てタクシーを呼んだ。
「**山入り口のバス停までお願いします」
運転手は物珍しそうな顔で僕のほうを見る。
神の棲む森。
僕は今日、そこに足を踏み入れるのだ。
もう二度とこの街には帰ってこれないかもしれない。次々に通り過ぎる風景を見ながら考える。でもそれで良いのかもしれない。僕の居場所は、ここには無いのだから。
何ら僕を惹きつけるものの無い人生。
もう一度やり直せるとしたら、きっと僕は。
「着きましたよ」
長いこと考え事をしていたからであろうか、やけに短時間で目的の場所に到着したように感じた。料金を受け取ると、運転手は口を開いた。
「私ね、この場所に今まで3人連れてきましたよ。道中はみんな暗い顔をしていましたね。けれど、貴方は何か違うようだ。今から起こることを心待ちにしているような表情ですね。これ、私の名紙です。もし帰ってきたら、また送りますよ」
名紙を手渡すと、彼は来た道を引き返していった。
もし帰ってきたら。
ふ、と笑みがこぼれた。その仮定は、きっと意味の無いものになる。目の前に広がる陰湿な森が、そう囁いている。
オマエハカエレナイ
オマエハカエサナイ
木々が唄っている。
ガードレールを越えて、誘われるように森の中に進んだ。


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