神の棲む森-2
瞬間、景色がぐにゃりと歪んだ。
足が地面に沈み込み、空間がぼやけた。何かとてつもない大きな波が自身を飲み込み、溶けて、消えた。
気付くと、人通りの多い交差点の中央で立ち尽くしていた。歩行者の青信号が点滅している。
僕は理解できずに辺りを見まわした。
信号は赤に変わり、先頭の車がクラクションを鳴らした。
僕は急いで、横断歩道を渡った。
間違いない、ここは大学近くの通りだった。さっきまであの森にいたのに。訳が分からず呆然とする。
「しゅ、俊!」
その言葉に振り返ると、見知らぬ女性が立っている。
「無事だったのね!」
目に涙を溜めながら、その誰かは僕に力一杯抱きついた。
君は誰だ?
どうして僕はこんなところにいるんだ?
無事って何のことだ?
次々に浮かんでくる疑問に、軽く眩暈を感じた。
「俊のお父さんに言っても面会させてくれなかったから、とっても心配していたのよ!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。一体なにを・・・」
傍にあった塀に背を預けて、顔を手で覆う。
「だって事故にあってからもう1ヶ月よ?ずっと貴方の容態が心配で夜も眠れなかったわ」
無意識に震えていた。
怖い。
まるで勝手に進められた人生を傍観しているような違和感。
「きっと人違いですよ」
言って自宅に走る。
目の前を通り過ぎる風景も、僕が生きてきた街とどこか違って見える。
例えば、**高校バス停前の土地。昨日までは、いやつい先ほど森に向かうときには何も無かった。空き地だったはずなのに。今は当然のようにガソリンスタンドが建っている。まるでもう何年もそこに存在しているかのように、違和感なく。
例えば、自宅の向かい側で吼える犬。僕が記憶しているバウというその犬は、3年前に死んだ。それなのにバウは、侵入者を見つけた時のしたり顔で吼え続ける。
例えば、玄関に乱雑に脱ぎ捨てられた靴。母さんは潔癖症なのだから、こんな状態を許さないはずだ。
何かが違う。
何もかもが違う。
それは違う。
違うのは、きっと僕の方だ。
「ただいま」
返される言葉を待つ。けれど期待した母の掛け声が聞こえない。台所にも、居間にも、欄干にも姿が見えない。買い物だろうか。ガタガタと二階の親父の部屋から物音がする。あまり乗り気はしなかったが、こんな状況だ。親父と話をしてみるしかない。
階段を上り、親父の部屋をノックした。
「誰だ?」
「僕だよ」
言ってドアを開ける直前、「えっ?」という短い驚きの声が漏れた。
僕を見た親父は、声もなく立ち尽くした。
「・・・親父?」
やけに背もたれの深い椅子にストン、と力なく腰を下ろす親父。そして眉間に手を添える。
「疲れているみたいだな、俺は」
「どうしたんだよ?」
「何処から来たんだ、俊一」
あぁ、と僕は悟ったような呻き声をだした。
事故にあったと告げた見知らぬ女性。
僕を見たときの親父の反応と、今の言葉。
必死に無視し続けてきた現実が、僕を飲み込んでいく。
「僕は、死んだ、のか?」
親父は頷きもせず、首を横に振ることもしなかった。
「お前は事故に遭ったんだよ。もう一ヶ月も前のことだ」
僕は両手で顔を覆った。
「コーヒーでも飲むか?」
言って親父は席を立った。
「僕は幽霊なのか?」
「やめてくれ、俺は物理学者だぞ」
僕は全てを話した。元いた世界。神の棲む森に入ったこと。
「あるいは、それは可能かもしれんな」
暫く考えてから、親父はそう言った。
その後長々と説明を受けたが、僕が理解するにはIQが一桁足りないように感じた。簡単に要約するとこうだ。
世界は無数に枝分かれしている。
始まりは1だが、次の瞬間には無限に人生が広がっている。その中の一つの世界から、別の世界へ、僕は飛び移った。
「どうしてこの世界に移ってきたんだろう?」
「物質はな、エネルギーの低い準位へと流れ込んでいく。これは自然の摂理だ。この世界には、お前という『存在』が足りない。だから流れ込みやすかったのだろう。それにしても、神の棲む森、か。世界間の飛び移りを可能にしている不確定性を生み出している空間が、その場所なのかもしれん。物質を限りなく波に変換して、壁を越えさせる。恐らく確率的にはゼロに等しいだろうが」
ゼロではない ――― それを今、僕が証明している。
「それで」親父は、机のうえに置かれた写真に視線を向けながら言った。
「お前がいた世界では、君江は元気にしているのか?」
この世界では、母親も死んでしまっていた。
「向かいの犬のバウをかばって、トラックに轢かれてしまったよ。二年以上たつな、もう」
そして僕が逝き、親父は一人になった。
残されて、彼は何を思ったのか。