電話のない探偵事務所(前)-2
「あの、灰皿は?」
十分後、女は帰っていった。私はゆっくりと煙草に火をつける。客が帰れば、ここは私室になる。
女の後ろ姿を思い浮かべながら、聞いた話を反芻する。よくある夫の浮気調査。話の筋は通っている。しかし、なにか腑におちない。
何故、私のところを訪れたのか。
この事務所には電話を置いていない。したがって、電話帳にここのことが載っているわけではない。連絡用に携帯電話は所持しているが、そこに仕事の依頼が直接入ることはない。ほとんどは大手興信所からの下請けだ。
そのときは、そちらに出向く。それ以外となると、知り合いの弁護士からの紹介によるものがあるが、その場合は特殊なケースだ。事前に詳細な報告を兼ねた連絡が必ず入ることになっていた。
要するに宣伝、営業活動の類は一切行なっていない。飛び込みの客など、ないに等しい。
なのに、あの女は来た。しかも、まっすぐに迷うことなく、私のところへ。
弁護士が連絡を忘れているとも考えにくい。彼を介して、ここへ来る相談者はかなり切羽詰った状況でやってくる。皆、まわりをみる余裕がなく個人のプライバシーなど配慮する必要がない。だから、こんな場所で十分なのだが、それでも部屋の異様さに入り口のところで、まごつくものだ。
彼女にそういった躊躇する素振りは、わずかも認められなかった。しっかりとした足どりで、その均整のとれた身体を私の前に運んできた。
無駄と思いつつ、どうして、ここを知ったのかも、尋ねてみた。
知り合いの紹介。女はそれ以上は明かさなかった。上のところ以外に、私に思い当たるところはない。零細企業の厳しさを知る身では、クチコミで広がったと信じるほど能天気にはなれなかった。
私は根もとまでなくなった煙草をもみ消すと、最後の残り火をみつめていた。その淡い紅に反応するように、頭の中を警告音が巡った。
瞬時に思い浮かんだキーワードは『危険人物』。この場合は、調査対象ではなく、依頼主。
そのまま火が完全に消えるまで、ゆらゆらと登る煙の行方を見届ける。その空気の流れが私にさらなることを連想させた。
蛇の道は蛇―。
私が結論づけたのは……。
同業者。他の探偵に厄介な客を押しつけられた。
新しくつけた煙草が、途端に不味くなった。
灰皿に残る女の吸殻を自分のそれがすべて覆いつくした頃、ようやく私は外に出る気になった。
空は曇天だが、降り出してはいない。傘を持っていない私には憂鬱な天気だが、だからといって、外出を控える理由にはならない。何故なら、室内の陰鬱さも外にひけをとらないからだ。
立ち上がっただけで、部屋の全貌を見渡すことができる。パーテーションとは名だけの間仕切りの隙間に、住人たちの気配が蠢いている。
入り口近くの建具のあいだから、男物の靴がみえた。足つぼマッサージ師は靴を履いたまま、寝ているらしい。微かにいびきのようなものも聞こえる。
かなりの大男で、おかげでベンチに横になっているものの、仕切りにカーテンを貼り付けただけの簡素な診察室からは、足がはみ出していた。昼間は客がこないので、大概は眠っている。夜も更けると、ちらほらと仕事帰りのホステスが訪れる。
左に視線を向けると、半分隠れた男性の後ろ姿がみえる。背広を着た、その顔付近には絶えず煙がただよっている。どうやら、私と同じ病気のようだ。