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電話のない探偵事務所
【その他 推理小説】

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電話のない探偵事務所(前)-5

 水曜日。
 定時になっても、一木は出てこない。
 私はじりじりしながら、コーヒーのお代わりをした。幸い、ここは夜は十時まで営業している。昼の喫茶店からは様変わりして、酒なども出すようだ。
 残業の可能性もあるな。そう思いながらも、私はここで夕食をとるか決めかねていた。持久戦には慣れているが、食べておかないと咄嗟の判断に狂いが生じるおそれもある。
 相手の都合もある。日にちを変えたのかもしれない。そう思うことにして、ここで食事を頼むことにした。
 私はこういうことがあると逆に安心する性質だった。何もかも計画通り、事前の情報通りにいくと却って不安になる。特に、あの女がもたらしたものになると、それは尚更だった。
 彼女が何者であろうと関係ない。ただ、依頼されたことをまっとうすることだけを考えればいい。何度も自分にそう言い聞かしたが、心の靄は晴れない。
 食事を済ませて、今日はもう何も起こらない、そう思いかけたとき、背後に気配を感じた。
「お仕事?たいへんね」
 この店の女主人らしき人物がサービスのコーヒーを注ぐところだった。私は警戒しているのを悟られないように、慎重に煙草に火をつけた。
「あれ?オレ仕事の話なんてしたっけ、ママ」 
「やだ、ママなんてやめてよ。そんなんじゃないから」
 女主人は太目のからだをくねらせながら、照れた。その様子を注意深く観察したが、そこに姑息な打算などは感じられない。
 だが、彼女は俺の職業を知っているような口ぶりだった。水商売に従事する特有の嗅覚だけが、原因だとは思えない。
 そんなこちらの心中を察したのか、彼女は困ったような笑みを浮かべた。
「困らせるつもりはなかったの。ひょっとしたら、と思っただけだから」
「へえ、なんだと思ったの?」
 私は深刻にならないよう、軽い調子で合わせた。
「違ってたら、ごめんなさい。てっきり、興信所のひとだと」
「当たり」
 私は笑って答えたが、口の端はひき攣っていた。
「オレって、そんなわかりやすい?」
「ううん、ちがうのよ」
確かに日が高いうちから夜まで、こんなところに張り付いている中年男がろくな仕事に就いているわけがない。私が考えつくのも、精々探偵かストーカーくらいだ。
「前の人から何も聞いてないのね」
 前―――。私はしばらくして、すぐにそのことに思い当たった。
「なるほど、前にもオレ以外の探偵がここに座っていたんだ」
「エッ、同じ会社の人じゃないの?」
 女主人の声が裏返った。そして、気まずそうに席を離れていった。
 なんのことはない。一木の妻自身が言っていたことだ。前にも、俺のような探偵を雇っていたのだと。
 私は太った女を横目にみながら、伸びをした。彼女はカウンターに入って作業をしていたが、その動作はぎこちない。こちらを気にしているようだ。
 私はその目線を気詰まりと感じながらも、無視することにした。特に彼女がこちらを邪魔する様子がなければ、放っておくしかない。そう判断して窓の外に視線を戻したそのとき、私の視界を影が横切った。
 一木が普段いる事務所はビルの三階にあった。その階上の四階に人影がみえたのだ。遅くなったこともあって、三階のほとんどの窓にはシャッターが下りていた。しかし、四階のその部屋は全開のまま、まるみえの状態だった。ひとりは背格好からいって、一木本人だろう。もうひとり向かい合っているのは女性のようだ。会社のものだろう事務服姿の彼女が一木の首に腕を絡めた。
 私があぜんと見守る中、一木は彼女を引き寄せ、唇を重ねあう。撮影するべきか、迷って、私はカウンターのほうを振り返った。
 向かいのことはママも気づいていたらしい。私と目が合うと、驚いたように目を逸らした。
 浮気の重要な証拠になることは十分承知していたが、店の人間の目もある。盗撮と受け取られる行為は避けるべきだった。
 私は絶好のシャッターチャンスを逃した。


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