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電話のない探偵事務所
【その他 推理小説】

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電話のない探偵事務所(前)-1

 私はメモを取るふりをしながら、その女の表情を盗み見ていた。
 女はここへ来てから絶えず、笑みを浮かべつづけている。話をするときも。私の言葉に耳を傾けるときも。
 女の年齢は三十六。多少は若く見えるかもしれない。身につけているものは、年相応のものだが、老け込んではいない。身なりには気を使うタイプのようだった。
 幸福で、満ち足りている。女の印象を問われれば、そう答えるだろう。ここに来ている理由を聞くことをしなければ。
「御用件は承りました」
 私は手帳を閉じると、事務机の上に身を乗り出すように肘をついた。そして、少しもったいつけるように胸の前で、指同士を絡ませる。
「しかし、ご主人が浮気をなさっているかどうか、あなたの話だけでは判断できない。ひょっとしたら、奥さんの思いちがいかもしれない」
 私はそう言って、女の反応をみた。彼女はほとんど表情を変えず、口もとだけを緩めた。
「そうね。あなたの言うとおりかもしれない。だけど、これは初めてのことではないわ。私にはわかるのよ」
 深刻なはずの内容が次々と口から滑りおちる。彼女が夫の浮気を疑ったのは、一度や二度ではない。過去に私とは別の興信所を使ったことも匂わせた。
「もうこれ以上、こんなことを引きずって暮らすのは嫌。つらいことは一度で終わらせてしまいたいの」
 女は離婚も視野に入れている様子だった。小学校四年の息子がひとり。親権も含めて、有利な交渉をすすめるためには確かな証拠がいる。
 話は済んだとばかりに、女はバッグから煙草を取り出した。銘柄は着飾った服装とは不似合いのありきたりのものだ。私に吸っても良いかと目顔で尋ねてきたので、うなづいてやった。
 喫煙を許可したのは、思考を邪魔されたくなかったからに他ならない。私自身、重度のヘビースモーカーだが、公共の場ではやらないようにしている。私はぼんやりと視線を脇に逸らした。
 隣の男と目が合った。しっかり聞き耳を立てていたらしい。形だけ、囲いで目隠しをしていたが、これではまる聞こえだ。その自称占い師は苦笑いを浮かべて、奥の自分のブースに消えていった。
 この部屋には私と依頼人の女以外に少なくとも三名の住人がいる。 住人と言っても、ここに住んでいるわけではない。仕事場として、このテナントを共有しているのだ。占い師、IT関連社長、足つぼマッサージ師、そして、しがない探偵。バラエティに富んだ面々だが、意外なことに共通点もある。懐具合については、お互い誤解のしようがない。
 都心に近い雑居ビルの一室に詰め込まれた我々は低家賃という恩恵に預かりながらも、情報管理については端から諦めていた。まあ、他は知らないが、うちに限っては、そういった配慮は無用だ。そのような“些細なこと”を気にする依頼人は端から訪ねてこない。
 現に目の前の客も例外ではない。見ず知らずの男に家庭の事情を根掘り葉掘り聴かれても、顔色ひとつ変えなかった。そのことを今も気にしたふうもなく、窓に向かって平然と煙草をふかしている。
 古株の特権で、窓際のスペースだけは確保していた。女は外の景色をみながら、目を細めている。
 今はあいにくの曇り空だが、普段は日当たりもいい。かび臭い匂いも気にならなければ、どうということもない。
 女がなにかを思い立ったように、私をみつめてきた。この日、はじめての逼迫した表情といっていい。私は身構えた。


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