忘れてしまった君の詩-14
22 僕は手近にあったパイプ椅子を広げると、馬に跨がるみたいにドカリッと腰を下ろし、思いついたままを口にした。
「真実は時に、嘘よりも人を傷つけるものなり」
「なんだ、それは?」
「何でもありませんよ。それより、彼女に言ったのはあれだけですか?」
先生は一瞬、訳がわからないといった顔をしたが、素直に僕の質問に答えた。
「一度落とした相手なら、もう一度落としてみせろとも言った」
「それから?」
「生娘じゃあるまいし、ウジウジするなとも言った」
「……はあ」と、僕。
「なんだ?」
「何でもないです。ただ、彼女は素晴らしい友達を持ったなと……」
本心だった。これほど言いにくい言葉をズバズバと言える人間は、ちょっといない。
天性の毒舌家というものがいるとするなら、きっと先生をおいて他にはいないだろう。
そんなことに思いを馳せていた僕に先生が言った。
「そういえば、この間の電話のことを覚えているか?」
「僕が相談したいことがあるって言った時のですか?」
というか、それ以外に先生に電話したという記憶が僕にはない。
先生も頷いた。
「そうだ。あの時、私の後ろでピアノの音が流れていただろ?」
思い出してみれば、確かに。あの時、先生の電話口の向こうで何かの曲が流れていた。でも、
「それがどうかしました?」
としか僕には言えない。
「あれを聞いていて、お前は何か感じなかったか?」
「そういえば、不思議な感じの曲でしたね。胸が熱くなるような、切なくなるような。それでいて、初めて聞いたはずなのに、どこか懐かしい気持ちになりました」
怪訝に思いながらも答えた僕に、先生は、
「いい兆候じゃないか」
と、手元の資料を投げて寄越しきた。
受け取った僕は、さっきまで先生がそうしていたようにパラパラ捲ってみる。が、さっぱりわからない。
それもそのはずで、資料は日本語ではなく、ドイツ語らしき文字で書かれていたのだ。
中には英語で書かれているものもあったが、こちらも小難しい単語やら文法ばかりで、解読するにはちょっとばかし時間も気力も足りない。
僕は早々に諦めると、先生に訊ねた。
「なんです、これ?」
「記憶喪失になった患者の症状、及び、治療法。それを記録した過去十年分の資料だ」
「はっ?」
「本当は五十年分が欲しかったのだが、残念ながら、そこまでのものはなくてな。そいつによれば、記憶喪失になった患者はある日突然、記憶を取り戻すのではなく、いくつかの前兆があるんだそうだ」
「前兆?」
呑まれたまま、聞き返してしまった僕に、先生は頷いてみせた。
「既視感みたいなものを感じるらしい」
そこまで来るに至って、僕はようやく先生の言わんとすることがわかった。
「あのピアノ、彼女が弾いてたんですね」
「ああ。何でも、お前と初めて会ったときに弾いていた曲らしい」
通りで、初めて聞いた気がしなかったわけだ。
そう教えられてしまうと、どうしても知りたくなった。
「あの曲、なんて名前なんですか?」
先生は首を振った。
「名前なんてないさ」
「名前が、ない?」
「あれはあいつのオリジナルなんだ。名前はお前と一緒に考えるんだと言っていた。それも、お前が事故に遭う前のことだがな……」
先生のため息。
部屋の中は随分暖かいのに、何故だか僕には白く煙ったものが見えたような気がした。
彼女はいったい、どんな思いであの曲を一人弾いていたのだろう?
窓の外を見れば、更に勢いを増した雨。どうやら、今晩中には降り止みそうにない。
「名もなき詩、か」
僕の呟きは雨音にかき消され、儚なくその姿を無散させたのだった。