毎日考〜始まりの前〜-3
冷たい風が吹き抜けた。
少し残っていたチャイからは、既に湯気は立っていなかった。
入学式の始まる時間。
あたしは。
会場へと近づいて行く。
残りのチャイを飲み干すと、入口の前で花壇を振り返った。
既に人ごみに紛れた男性は、見つけることはできなかった。
入学式に合わせて実家から届いた胡蝶蘭が揺れる。
外は霧雨。
ソファに座って紅茶を飲む。
窓ガラスを伝って滴る雨水がやけにくっきりと跡を残す。
厚く垂れ込めた雲の隙間から、天使の梯子を見つけた。
バニラの香るアイスクリーム。
茹でた新鮮な野菜たち。
紅茶。
そんなテーブルの上を見て、胡蝶蘭が微笑む。
入学式から1ヶ月。
世間はゴールデンウィーク。
賑々しい喧騒は、苦手。
外に出ると、どこに行ったって人人人で。
むやみやたらと疲れる。
窓の外の子どもの声で十分。
十分雰囲気は味わえる。
あたしはベランダに出て、ぼんやりとつっ立って。
じんわり温かい紅茶をすする。
雨は止んで、淡い光が射して。
近くの公園の木の葉が、つやつやと蒼く輝いていた。
ふ…えーん…ふ、ぃっく…
公園から、子どもの泣き声が聞こえてきた。
普段ならわらわらと寄ってくるママたちも、今日はさすがに少ないらしい。
子どもは、しばらく経っても泣き止まなかった。
かちゃり。
部屋の鍵をかけ、外に出た。
思ったよりも暑くない。
外階段を下りて、泣き声の元に向かう。
華奢で壊れそうな、小さな女の子だった。
「どうしたの。」
驚かせないように、そっと声をかける。
あたしを見上げた女の子の黒目勝ちな瞳は、どこかで見たことがある気がした。
「いない、の。兄ちゃが、いないの。」
訴えかけてくる瞳。
あたしはその子を抱き上げた。
あったかくて、柔らかな。
少女の重みが腕に心地よくて。
懐かしい甘い香りがした。
「姫っ。」
慌てた男性の声。
泣き止んだ女の子が、その声に顔を向けた。
「兄ちゃ。」
振り向くと、入学式で出会った男性が駆けよってきた。
女の子を、彼を渡す。
「ありがとう、ございます。」
しっかりと少女を抱きしめて、彼が言った。
あたしが、彼に、本当に出会った日。
雨上がりの湿気を含んだ優しい風が、あたり一面を包み込んでいた。
「また会えた。」
彼が耳元で囁いた声は、今も心に留めている。