例えばそれが、夢である必要-3
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絵が完成したのは夕刻になってからであった。
文化祭初日も終盤に入り、早い所では片付けをし始めるクラスもある中、僕はスケッチブックに彼女を描き終えた。 胸の辺りから顔までが描かれ、そこに写る女性は何故か悲しき眼をしていた。
描いている最中に何回か青山 京子と眼が合った事を思い出す。彼女は―たぶんこちらが絵を描いている事を知っている上で―笑った。
その笑顔が魅力的であったからだろうか。 何回目か目が合った時、たまらず高橋が青山 京子に声をかけた。 僕は内心の内に舌打ちをした。
「あの―肝だめしはいかがですか?」高橋はそう言った。
その時の高橋の表情は、まるで神に何かを乞うが如く、鬼気迫る物であった。 これほどまでにも全身から必死さが伝わる高橋を、僕は未だかつて見たことが無かった。
青山 京子は話しかけられたのが、当たり前と言わんばかりに頷いた。 そして僕をチラリと見てから、高橋と話した。 それ程遠くにいた訳では無かったので、高橋との会話が聞き取れなくは無かったのだが、僕はやはり知らぬ顔をしていた。たぶん僕には関係が無い事だろうし、こんな高橋を見るのは何かいたたまれなかった。
高橋と言う男は、僕の唯一無二の存在であるが為に、僕の中では絶対的に“凄さ”が備わっている人間であった。それは僕個人の中で誇張されつつあるが、決して嘘では無かった。 何をする時でも先を見据える眼を持っていたし、頭の回転も早く、また運動も出来た。
僕はこれほどまでに完成された人間を、彼以外に見たことは無かった。無論、これから歩む人生の内でも、差ほどたくさんはいないであろう。
それほどまでに高橋という男は素晴らしい才能に恵まれていた。
そんな高橋が、これほどまでに何かに取りつかれている所を見るのが、友人として悲しかったのだった。あるいは少しばかり羨ましかったのだ。
高橋は僕の話で、こんな輝きを持った顔をした事は今までに見たことが無かった―…
青山 京子は、僕の前に来て受付を済ませ、僕の耳元でボソリと呟いた。
「上手ね―」と青山 京子は言った。
その声は、耳から背筋にかけてを瞬く間に駆け巡り、脳の中枢、いや、そのまた奥にいる本能にさえ響き渡り、僕の何かを壊そうとしているみたいだった。
僕は驚きのあまりすぐに青山 京子の顔を見たが、そこには既に彼女は無く、代わりに高橋が芯のない鉛筆の様になっていた。
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ただの一言、口を交わしただけの出会いであった。が、それには多くの意味があり、また多く紛失があった。
あの後僕と高橋は、受付で得た金額の集計を終え、家へと帰った。 無論、高橋は何をするのも上の空で、皆がみな、高橋を心配した。 皆、高橋のこんな姿を見るのが始めてだった。彼は常に周りとの関係を均等にするため中心となって活躍し、そして結果を残して来たのだった。 そんな彼が骨抜きになっている。舞台行事を後に控えるクラスメートにとって、これは一大事であった。
僕が家に帰った後、クラスメートの何人かからメールが届いていた。みんな内容は同じで、高橋をなんとかしろ、との事であった。
確かに僕はクラスで一番高橋と仲が良かったが、僕がどうこうする問題じゃない様に思えた。
僕は断った。
あれは、まぎれもなく高橋の問題であるし、僕の出る幕はなかった。 しかしクラスメートはそれを理解せず、とにかく明日の舞台を成功させるのに躍起であった。
冗談じゃない、と僕は思った。
そもそも舞台行事をやろうと言い出したのは、今メールを送ってきた奴等だったのだ。 奴等はやりたい事を口々に並べて、仕切る事はしなかった。 だから仕方なく高橋にその役が回って来たのだった。それを今さら高橋がいなければ始まらない等と言い始め、あげくに僕に説得しろとまで言い始めた。
僕は内心、こいつらを思いきり殴りたい衝動にかられたが、高橋がそれを望んでないように思えたので止めた。そして、わかったとだけメールを送り、高橋に電話をかけた。三度目のコールで高橋は出た。
「もしもし」と高橋は言った。「なんだよ。いきなり」
「なんでもないよ。高橋」と僕は言った。
「なんでもないのに電話するやつなんていないだろ。話があるんだろ?」と高橋は機嫌が悪そうに言った。
「そうだよ」とだけ僕は言った。
いつもの僕らのテンポであった。