『名のない絵描きの物語〜黒猫編〜』-2
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結構な時間がたったのは確かで、携帯電話を覗くともう19時に迫る時間だった。 以前、変な男性は猫と話しを続けていて、僕はそれをずっと見ていた。
なにか可笑しかったから。
彼女の事が浮かんだり、昨日の笑顔を不意に思い出したりしながら、ずっとずっと一匹と一人を見守っていた。 穏やか時間が過ぎるのがわかる。 暖かい何かに包まれている様で、僕の心には勇気という炎が灯り始めていた。
何故か彼女に、想いを告げようと思った。
何故かはわからないけど、そう思った。叶わぬ恋と知りつつ、そう思った。
でもそれはまだ先の事。
その前に、あの変な絵描きサンと話しをしよう。
たぶんきっとだけど、勇気の火は彼がつけたのだから。
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こんなに会話をしたのは久しぶりだった。 猫が相手ではあるが。
幾分、黒猫の事もわかってきていた。
何故、寂しい眼をしているのか。
それは哀しい過去を持っている為で、そのほとんどが人間による出来事である事。 必然、人という種族を恨む様になるし、しかし彼はそこまで絶望もしていない。
そういう物なのだ。
そう割りきった世界に住んでいる。 昨日に囚われず今日を生き、明日を夕焼けに唄う。
不思議な猫だな。と思った。
願わくばこの猫がこのまま、人を恨むだけで済んで欲しいと、素直に思った。
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たまらず声をかけた。
猫との会話は永遠に続くと思われたし、描いている絵も完成にはほど遠いものだったから。
「すいません。よろしいですか?」
絵描きサンは驚いた様に振り向いた。 かぶっていた麦わら帽子がずり落ちそうになるのを見た。
「絵を…描いてらっしゃるんですね。上手ですね。」
いきなりすぎるだろう。と、自分で自分を責めたが、これ以外に言葉が浮かばなかった。
たぶん、嫌、かなりの無躾だろうと思う。
しかし絵描きサンの眼はそんな事を語らず、逆に優しさに満ちていた。
『上手に描けているでしょうか? 猫サンの生きざまを、田中は描けているでしょうか。』
初対面の僕に、そう問い合わせて来た。
そうか、田中という人なのか。 なんとなくだがしっくりとくる名前だな。
何だかそれが可笑しく思えて笑ってしまった。
『…? 田中はなにかおかしな事を言ったでしょうか?』
田中と名乗る人は、僕が笑ったので不思議そうな顔をしている。 切れ長の眼が僕の奥を覗く。
「いやいや、なんでもないですよ。 それより上手な絵ですね。 猫がそのまま動きだしそうだ。」
本当にそう思った。
ただ、なぜか絵すらも猫は冷たく見えて少し悲しかった。
『いえいえ。田中の絵は、そんなに大した物ではございません。 かいかぶりでございます。』
田中サンは謙遜したように言う。
麦わら帽子がワラワラと揺れる。
うっすらと生えた髭が、妙に現実味を与える要因になっていた。