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『名のない絵描きの物語』
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『名のない絵描きの物語』-1

タンポポを見た。
綿毛がなくなったタンポポだった。
桜の様に儚く散った訳ではなく、ただただ静かに揺れていた。
それを何故か、不思議だと思った。

彼と別れた事なんて、とるに足りない事に思えた。





男はしがない絵描き。
名もない地に訪れてはスケッチブックをうめていった。
時には眼を奪われた美しい景色。 時には心奪われた哀しい人を。
思いつくもの、眼にするもの全てを描いた。
それが彼の生き甲斐だった。

男は行くさきざきで人に問いかけた。 時には動物に。 時には植物に。
笑顔を見るとその訳を、怒りを見るとその理由を、様々な形で問いかけた。
それが何故かがわからなかったから。

男は涙を見るのが嫌いだった。 人が泣くと哀しいから。
だから涙を見ると止めようとした。 それは何故か、しなくてはならないと思えたから。
色々な涙を止めてきた。
それが男の生きる意味だ。





青空が高く気温も上がり続ける5月の日、タンポポを見た。
久しぶりに気持ちの良い日で、タンポポも嬉しそうに太陽と向かいあっていた。
黄色の花びらが風に揺れるたびに、僕の心は洗われていく様だった。
僕はスケッチブックを取り出し可愛らしい花を描き始める。
タンポポがフッと微笑んだ気がした。
僕も花に笑いかけた。
鳥のさえずりが、とても気持ち良かった。
僕はまた、問いかけた。
『なぜ笑ってるんだい?』





変な人だなって、そう思った。 花に話しかけてるんだもの。
しかしそれはとても自然で、不思議に心が暖かくなるのを感じた。
絵を描いてるみたい。
悪くなったこの眼でも、それくらいはわかった。 しかも今日は眼鏡をかけている。 花を描いてるのもわかった。
やはりそれが自然な感じがして、また、不思議な感じがした。
読みかけの本を閉じしばらく彼を観察する事にした。

歳の頃は二十歳ぐらいだろうか。 見た感じはとても若く、しかし何故か大人びてる感じもした。
髪が長いのが印象的だ。
前髪は口元まで伸びており、その隙間から見える眼はとても優しさをおびていた。 切れ長の眼だ。
五月に入るというのにロングコートを羽織り、ジーンズはすりきれてボロボロみたいだ。
頭には申し訳なさそうに麦わら帽子が乗っかっている。
花とスケッチブックを行き来する顔と同時に、帽子のつばもグラグラと揺れている。
なんか可笑しかった。


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