言葉と記憶と斑猫と…-1
また、女と別れた
今回は、2ヶ月続いた…これでもよく続いたほうだ
縁側の柱にもたれ掛って、酒をグイッと一気に飲み干す
ちょいと背筋を伸ばし、空になった切子硝子のお猪口を夜空に透かして見ると、それは、満月の光を浴びて、深紅のルビーのようにキラリと輝く。
暫く子供のように、うっとりと見とれていたが、黒い雲が月を覆ってしまい、魅惑の光を連れ去ってしまった。。
はぁ…月までもが、俺を避けてしまうのか。
どいつもこいつも…一体、俺のどこが気に入らないってんだよ!
チッと舌打ちしながら、もう何杯目か分からない酒を、江戸切子のお猪口に注ぎいれる。
その時…俺は、背筋をゾクリと駆け抜ける殺気を感じとり、徳利を傾けたまま固まった。目の玉だけを動かして、庭先をキョロキョロと睨につける。
アイツだ。アイツの気配だ…間違いない。
俺が狙いを定めた庭の片隅には、純白の花弁を幾重にも重ねた山茶花(さざんか)が咲き乱れるている。
その一角に、キラリと光る鋭い光線がふたつ…こちらの様子をじっと伺っていた。
俺は、わざとそ知らぬ顔をして、再びゆっくりと柱にもたれ掛った。
片膝を立てて座ると、お猪口の酒を一気に喉の奥へと流し込んむ。
強めのアルコールがトロリと喉を通り抜ける熱さを堪能しながら、ふぅっと長めに息を吐く。
「いつまでそうやって、俺を眺めている気だ?化け猫。くやしけりゃ、ニャーと鳴いてみろ」
さっきまで蒼い満月が輝いていた場所を気だるく見上げた俺は、そう言った後、ヒッヒッヒと嫌らしく笑った。
すると、どこからともなくヒラリヒラリと風が吹き、俺の頭上で、季節外れの風鈴が、チロリンと鳴った。
音の主は、赤い金魚が泳ぐ硝子の風鈴。この寒空に不釣合いなその涼しげな絵に、思わず身を震わせる。
「今日は一段と荒れてらっしゃるじゃぁないですか?若旦那」
横を見ると、縁側の端っこにいつの間にか、細い線だが、肩幅のある男の影が忽然と現れていた。
床の間から漏れる光は、障子で遮られ、声の主の座る場所までは届いていないが、俺にはすぐに、そのシルエットの所有者が誰だかわかった。
山茶花の群生の間から覗いていたふたつの緑色発色体が、今は、少し先で、蔑むような光を放ちながら俺を見つめていた。
彼の登場を待ち構えていたかのように、雲が晴れて、月明かりが庭にゆっくりと射し込む。
庭をゆっくりと這い上がった月光が、片膝を立てて座っている彼の体の上もゆっくりと這い上がる。
着流した深い藍色の着物からのぞく、必要以上に長く白い足。
妖気たっぷりの切れ長の目は、手のひらに載せた山茶花の花をじっと眺めている。
「今宵は遅い登場だな、ハンビョウ」
俺に『ハンビョウ』と呼ばれた男が、手の中の山茶花をフゥッと吹くと、それは紙吹雪の様に粉々に砕け、風花のようにハラハラと庭に滑り落ちる。
「若旦那。あなた、私のことを待っていてくださったのですか?狐憑きにあうとはこのことですかね」
「ばぁか。女にフラれた夜には必ず化け猫が現れる。インパクトありすぎて忘れられるわけないだろう?」
人より少しだけ早く「別れ」の周期がやってくる俺の所へ、『ハンビョウ』と名乗る、猫の幽霊が現れるようになったのは、大学に入ってすぐのこと。
「なぁ、ハンビョウ。教えてくれないか。おまえは、俺が女にフラれるようになってから、現れるようになったんだ?それとも、俺は、おまえがここに来るようになったから、女にフラれるようになったんだ?」
逆さにして、いくら振っても出てこない、お猪口と揃いの空の徳利に、苛立ちながら、チッと舌打ちし、そう問いかける俺に、ハンビョウは、間髪置かずにこう答えた。
「それを聞くのなら、若旦那。まずは『何故私がここへ来るようになったのか』それを先に聞くべきじゃございませんか?」
「そうか。じゃあ、遠慮なく聞かせてもらおう。おまえ誰に依頼されてここに来ているんだ?」
俺は怒鳴りながら、チラリとハンビョウを横目で見る。
俺を狐憑きにして呪い殺そうとしている不逞なヤカラは一体何処のどいつなんだ…
そんなギラギラとした俺の心を無視するかのように、涼やかな瞳を閉じて宙を仰ぐハンビョウの姿は、月明かりに照らされ、その透き通るような蒼白い肌は、翡翠のような光りを放った。
それはそれは、愕然とするほど美しく、この世のものではない、魑魅魍魎(ちみもうりょう)特有の妖艶さを惜しみなくさらけ出している。