琴線-2
夜……一巳は自室で本を読みながらワイルド・ターキーを呑んでいた。題名は"狼〇への伝言"。〇合信彦の自伝だ。3部作から成るこの作品は一巳のバイブルだ。彼は仕事や私生活で気持ちが落ち込んだ時、いつもこの作品を読み返し、気分を高揚させる。
落〇も極貧の中から己の力だけでサクセスを踏んだ男なのだ。一巳はそれを自分にオーバー・ラップさせながら読み、自分もそう在りたいとモーティベーションを高めるのだった。
突然、携帯が鳴り響く。美香の着歌だ。
一巳が携帯を開く。メールが送られていた。画面には、ただ一言、"起きてる?"だった。
うつ伏せの身体を半身起こして一巳は美香に電話をかける。
待受音が耳に響く。1コール…2コール…"アイツ、相変わらず素直じゃないなぁ"と一巳はニヤつきながら待つ。
5コール目に"カチャ"と接続音が鳴る。聞き馴れた声が聴こえる。
[なあに?]
何が"なあに"だ!自分からキッカケ作っといてと思ったが、昼間の事もあるので彼は自重気味に彼女に話しかけた。
[昼間はすまなかったな……ちょっと言い過ぎた…]
美香も呑んでいると一巳は思った。酔った彼女は"別人"のように可愛らしく振る舞うからだ。
[私こそゴメン…何であんな事言っちゃうんだろう…一巳、大好きなのに…]
一巳はニヤニヤ笑いながら"相当呑んでる"と思った。彼女は可愛らしくもなるが、時折、自分の発言に"酔う"ところがあった。
"じゃあオレも彼女に便乗してロマンチックな台詞を決めるか"と一巳は思った。彼も酔っていたのだ。
[オレこそ…オマエと会ってから、それまでの人生のつまらなさを痛感しているんだ…]
"ちょっとやり過ぎたかな"と一巳は思ったが、美香はそれに感動したのか、声が涙声に変わった。
[…こんな私だけど…許してくれる?]
一巳は吹き出しそうになるのを堪えながら答える。
[オレこそ許してくれ。お詫びに明日にでも夕食を共にしよう]
そこからも10分くらいお互いを"褒め讃え"、自分のいたらなさに対する謝罪が繰り返えされた。携帯を切ると時刻は深夜1時前だった。一巳は部屋の明かりを消してベッドに潜り込むと、心地よい充足感に包まれて眠りについた……
美香と付き合って早5年になる。彼女とは共通の知り合いからの紹介が出会いだった。
[藤野さん、ちょっと良い?]
一巳の元に総務課の森が訪ねて来た。彼女は本社から一巳のいる事業開発部へとつい先月異動してきたのだ。森とは特に親しいわけでも無く、事務的な話以外かわした事は無かった。その彼女が一巳を訪ねてきた事に戸惑いを感じた。
[何?]
一巳のそっけない素振りに森は"どう切りだそうかと"と躊躇していた。一巳はそれに気づいて彼女に言った。
[じゃあ7階のリフレッシュ・ルームで良いかな?]
一巳は上司に"タバコを買いに行って来る"と伝えると、森を連れて事務所を出てリフレッシュ・ルームへと向かった。