眠る恋の話 1-4
お湯が沸いてやかんがシュンシュンと音を立て始めて、私はカップをとろうと食器棚の扉をあけた。私の手の届かない一番上にペアのマグカップがしまってあるのはとっくに気がついている。この家にはたくさんそういうものがある。写真を抜いたフレームだったり、ベランダで色あせている女物のつっかけだったり、不精で棄てないのか、棄てたくないからとってあるのか、いちいちわからないけれど、けれどそれらはまだたくさん隠れていて事あるごとに私の心の中に小さい染みをつくっていく。
湯を注いだポットの中で紅茶の葉が広がって色がゆらゆらと滲んでいる。ワゴンの上には昼間揚げたドーナツが手付かずでまだあった。油染みたそれはなんだか貧乏くさくて嫌になったからその辺にあった紙袋にいれてごみばこに棄てた。くすぶっているものがいつもある。彼がよそを向いているとき私は必ずこうやって日陰でちろちろと青い炎をもやして陰気にひがんでいる。
「おい、棄てる事ないだろ。」
突然入ってきた彼は、ごみばこから紙袋をとり出した。
「なんだよ、もったいないな。」
そういって、袋からドーナツをつまんでほおばった男を私はじっとみていた。気がついているのかいないのかわからない顔で僕にもお茶入れて、と言う。
カップをもう一つ出して、すっかり葉のひらいたお茶を二人分淹れてトレーに載せてリビングに出た。彼はドーナツの入った紙袋を持って後に続いた。
「奥さん?」
ローテーブルにカップを置きながら、彼の方を見ないようにして言った。彼は当然のようにまたカウチに陣取り、私に横に来るように促した。
「妙に勘がいいな。」
膝の上の紙袋から二つ目のドーナツを取り出してまたかじった。
「最近、連絡とってるんだ。」
にゃんこ、と呼ばれたけれど、彼を見ることができなかった。
彼は私の頭を抱き寄せて、頬ずりした。頭のおくがじんとして、視界がぼやけた。彼も私と付き合うことでいろいろ変化が生まれているのだ。それがどういう種類のものであれ、遠まわしに私がそうさせている。まだ、これが正しいのかどうかはわからない。
夕方の日の沈みかける時間で部屋はオレンジ色の柔らかい光がカーテン越しに入ってきていた。
「マグカップ、棚の上の一番上のやつ。」
「うん?」
「棄ててもいいですか?」
彼は台所の方を見た。しばらく考えるような顔をして、いいよ、と言った。
「それから、ベランダのサンダルも。」
うん、と頷く。
「先生の話が聞きたい。次は先生の番。」
彼は私の頭の上でしばらく考えて、いいよ、と低い声で言った。その声があまりに真剣で私は妙な緊張をおぼえたのだ。どんな顔をしていっているんだろうと彼を見上げたけれどその表情は私にはわからない何かを含んでいて、どんな話が始まるのか想像はつかない。
「何から話そうか。」
一日の最後の光の色と、彼の声とが、美しくて、恐ろしくて、彼のシャツをきゅっと握った。怖いのはなにも未来ばかりではない。
身をすくめた私の背を大きな手が撫でる。大丈夫、大丈夫、彼の体温はすぐ傍にある。
そして、彼はとても息の長い話を始めた。
続く