隣人は雨の香り-8
「おいで」
また手招き。私は慌てて近寄り、靴を履こうとして迷って雨水さんを見た。
「いいよ、履いて」
雨水さんがまた楽しそうに笑みを浮かべる。
けれど、視線はすぐに私の部屋の方へ向いた。ベランダの塀に彼は近寄り下を見て、私の部屋とを隔てる防火板と塀の間から私の部屋のベランダを覗く。
「この上に乗って隣に行けるかな」
うーんと唸る声。塀越しに私も近寄って、下を覗く。私と雨水さんの部屋は8階にある。地上は遥か下だった。
「む、む、無理です」
思わず呟く。雨水さんは振り返りまた唸る。
「俺が抱き上げるからさ、後ろから支えるし」
雨水さんに抱き上げて貰えるのは嬉しい気がする。いや、でも、太ってるし、じゃなくて、怖い。首を左右に何度も振る。
「ダメです。だって怖いし、私重いし、私やっぱり………」
鍵屋さんを呼ぶと宣言しようとした時、雨水さんは防火板をノックをするように叩き始めた。
「あ、の……?」
私が遠慮がちに声をかけると雨水さんはイタズラを思いついた子供のようににやりと笑う。
「これ、蹴破っちゃおうか」
「へ?」
「だからさ、これ無くせば良いだろ?」
瞬きをする。雨水さんの言ってる事が理解出来なくて首を傾げた。
「無くてもいいよ、俺は。気にしないし、君も俺の部屋に無断で入るような子じゃないだろうし」
「え?えぇっ!でも、そんな事したら怒られませんか?」
「大丈夫。君は怒られないから」
「……そうですか……?」
うーん、と今度は私が唸る番だ。
「大丈夫、大丈夫。無い方がいざって時に逃げやすいし。着替え覗いたりしないからさ」
ハハッと乾いた笑いを浮かべ雨水さんは部屋へ戻る。目で追うと玄関へ行き、靴を片手に戻ってきた。
「下がって」
高そうな革靴を履き、防火板の前に立つ。
言われた通りに下がると助走をつけて雨水さんは板を蹴り飛ばす。
何度か蹴ると板はガコンと金具ごと私の家のベランダへと倒れた。
物凄い物音に思わず肩をすくめると、雨水さんも同じだったようで私を振り返りにやりと笑った。
つられて私も笑いだし、2人で声を潜めて笑い合う。
しばらく笑ってから雨水さんは少し端にずれ、ホテルのボーイがするように片手を私の部屋へ差し出した。