ビターチョコレート-7
「実加。今でも、あのお店はビターチョコレートを扱ってる?煙草の箱みたいな見た目の、白い箱の……」
私が尋ねると、実加は頷いた。
「それは、オーナーのこだわりだから。行こう。オーナーには、私からちゃんと言うから」
「チョコ、玲人、行くよ。急がなきゃ、おばさん待ちくたびれるよ」
麻以ちゃんが車を出してくれた。みんなが、母の為に優しかった。
パチンコ屋に着くと、オーナーのおじさんが待っていた。私がお金を取り出していると、おじさんは慌ててとめた。
「いいんだよ。君のお父さんは大事なお客さんだった。その人の最愛の人が亡くなったんだ。これはおじさんからの餞別だよ」
そう言って、段ボールにぎっしりと詰まったチョコレートをくれた。
「そんな、悪いです」
「いいから、いいから」
オーナーのおじさんは、決してお金を受け取らなかった。父と母は、そして私たちもこのおじさんに愛されていたのだ。嬉しかった。幼い日の優しいおじさんは、すっかり大きくなった私たちを変わらず可愛がってくれるのだ。
「じゃあ、あと千円分だけ買わせてください。ううん、パチンコ玉に換えるから、それで、交換できるだけ、チョコレートを下さい」
私がそう言うと、おじさんは目を細めた。憶えていてくれたのだ。あの日の父を。
「そうだね、それも必要だね。さあ、玉にしておいで」
震える手で、千円札を機械にとおした。じゃらじゃらと懐かしい音を立てて、玉が出てきた。玲人が箱に入れて、持ってくれた。おじさんに渡すと、紙袋に入ったチョコレートを渡してくれた。ここまで再現してくれたおじさんに頭を下げ、店を出た。また、改めてお礼に来なければ。
今は、急いで母の元へ帰ろう。きっと、待っている。
「すみません、お待たせしました!」
「我が儘を言ってごめんなさい」
謝る私たちを、誰も責めたりしなかった。責めるどころか、誰もがチョコレートを手に取り、母の棺に入れてくれた。
母の身体が、白い箱で埋め尽くされてゆく。それを見て、ようやく涙が溢れた。
棺は、父と母の思い出で一杯になった。誰もが優しい顔をしていた。この時、この場所は悲しみではなく、優しい気持ちが支配していた。
「母さん、ごめんね。1箱だけ頂戴。私、これ食べなきゃ」
千円で交換した紙袋の中から1箱、取り出した。
「俺も。母さんごめん」
玲人もそう言って1箱取り出した。そして、残りは紙袋ごと棺に入れた。
出棺の時になり、母は家を後にした。火葬場で焼かれ、白い骨になり、小さな壺に入ってしまった。骨を拾うとき、焼けた匂いの中に溶けたチョコレートの匂いがした気がして、私はまた、泣いた。
母は、この世から消えてしまった。とても淋しかった。でも、きっとこれは、本当は淋しいことなんかじゃない。繋がる生命がある。
母が父に会えたように、私たちはまた両親に会える。そして、私たちが繋いだ生命がまた、未来に続いていく。ずっとずっと繰り返す、永遠の幸福。
冬の訪れを告げる、冷たい風が吹いた。街には、たくさんのチョコレートが並んでいる。
私はそれを買い、食べた。母が食べられなかったものを、私が食べておこうと思ったのだ。そして、次に会うときに、教えてあげるのだ。
玲人もきっと、同じことをするだろう。私の名前は千夜子で、弟は玲人だ。私たちは、チョコレートの名前を持っている。それは、絆だ。私は初めて、自分の名前を誇りに思った。甘い幸福に選ばれた名前だと。
季節は巡り、春になろうとしていた。葬式の時のチョコレートがまだ、手付かずで残っていた。包みを開けると、優しい香りがした。
「父さん、あの時チョコレートを突き返したりしてごめんね。これ、とっても美味しいよ」
私は泣きながら、ほろ苦くて、しょっぱくて、とびきり甘いチョコレートを食べた。あの日の母のように。それは、今までに食べたどのチョコレートより美味しかった。
青空が広がる窓の外で、母の思い出話を聞いたあの一年前の春の夜の、ショッキングピンクのパジャマがひらひらと揺れていた。
繋がっていく。
風に揺れるショッキングピンクが、とても優しい色に見えた。