闇よ美しく舞へ。 5 『雨 〜少女二人、昔語り』-2
この村にはこんな言い伝えがある。
『天の神怒れし時、贄をもってこれを贖(あがな)い、それを納めるべし。されば天の厄才、これにて納むるべし。』
つまりは、日照りや長雨といった天候の不順は、天を司る神様のお怒りに触れたせいであると。したがって、これに生贄を捧げて、許しを乞い、その災害からのがれよ。と言うことである。
がしかし、伝承にはこうもあった。『厄才よけの生贄には、若い娘を持って行うべし』と。
こう言った古い言い伝えや伝承、あるいは祭り儀の犠牲になるのは決まって若い娘と相場が決まっている。言わば、これは貧しい地方農村にとっての口減らしに相違ない。古くは江戸時代以前よりも遥か昔から、何処からとも無く始まった厄介(やっかい)事であり、どこの地方農村でも、同じ様な言い伝えはある物だ。
生産する食料の量が極めて少ない貧しい農家にとって、家族が多いということは、並大抵の苦労ではない。そんな中、比較的労働力の面において、即戦力とならず、加えて家系を継ぐ事の無い女の子供が、その口減らしの槍玉に上がって居たことだろう。そう作者は推測する。
そんな時代背景が、何時しか生贄は『若い娘』と言う、合理主義的な采配が、誰が始めた事とも無く、自然とこの国のあちらこちらで、定着して行った様子である。
しきたりとは言え、今の時代からしてみればナンセンスであり、馬鹿げたことではあるが、この時代の人々にとっては即、死活問題に関わる事でもあり、口減らしは自らの家系を守る、苦肉の策であったのだろう。
考えて欲しい、猛禽類(もうきんるい)で有名な『オオタカ(大鷹)』は、時に3〜4羽の雛(ひな)を同時に孵化(ふか)させる事がある。食料となる餌が豊富に有る場合、これら雛は皆、無事に育つ様だが、餌が不足して来ると、親鳥は一番発育の良い雛だけを残し、それ以外の雛には餌をまったく与えなく成ると言う。餌がもらえず餓死した雛は、そのまま生き残った雛の餌にも成ってしまうのだ。
太古、貧しい農民もそうだったのかもしれない。将来の働き手を担(にな)うべく子供は多く作るも、いざとなったら一番弱い者から切り捨てていく。なんにせよ残酷な話であることには、変わりは無い。
だが若い娘を持つ親としては、やはり心苦しい事この上なく、誰だって自分の娘を生贄などに差し出したくはない。
誰彼とも無く押し黙ったまま、重たい空気が立ち込め、最早雨乞いの儀式は中止せざるを得ないと、皆が思い始めた時。
「わしの孫娘を、生贄に差し出す!」
そう言う村長の顔を、皆が一斉に見詰め、固唾を飲んでいた。
「天に崇(あが)めるよろずの神々様、畏み畏みそうろう」
ありがちな祝詞(のりと)を唱え、玉ぐしを振る神主。その横で、白装束に身を包んだ幼い少女もまた、手を合わせ、祭壇に向って頭(こうべ)を垂れていた。
「すまぬな……ヨネ。許してくれ」
そして少女の脇で、年老いた村長が、皺だらけの手を合わせ、同じ様に頭を下げていた。
「いいえ、おじい様。村のためにお役に立てるのであれば、ヨネは嬉しゅうございます」
そう言って笑う少女『ヨネ』。ようやく10歳に成ったばかりの、そんな少女の健気な姿に、集まった村人達も皆、涙していた。
少女は全身を荒縄でもって縛られると、村の御神木である大きな杉の木に吊るし上げられ、くくり付けられた。
村長以下、集まった村人達は、そんな少女を一人残したまま、後ろ髪を引かれながらも山を降りて行く。これから一ヶ月間、この場所への立ち入りは何人(なんぴと)たりとも許されない。
ヨネは小声で歌を歌った。
「そらのの ののさん 子守の子 この子は おの子とほーやれほー ととさんかかさんこーやれこー 泣かずばいってほーやれほー いけどもいかれず 帰りの子ー」
そして涙が止め処なく、頬を伝い、零れた。