『SWING UP!!』(第1話〜第6話)-244
「ん?」
マスクを手にして、定位置に向かおうとしたが、晶がベンチに座ったままだったので、すぐにその足を止めた。
「どうした? チェンジだぞ?」
「あっ、ご、ごめん」
その声を受けて、飛び出すように尻を上げる晶。
「………」
動くたびに、ぬるぬるとした股間の濡れ具合が気になって、なんとなく腰が引けてしまう。我ながら、なんとも情けない話ではある。
「下位から始まるけど、1番には廻るから、注意しないとな」
「う、うん」
無安打に抑えているとはいえ、相手の1番打者(岡崎)は油断がならない。塁上に走者を置いて迎えたくない打者であり、塁上に走者として抱えたくない打者である。
「晶」
「?」
ミットで口元を隠しながら、亮が顔を寄せてきた。なにか、人目をはばかる話があるらしい。
(耳は、ちょっと困るんだけど……)
妄想によって敏感になっているからだ。しかし、亮がそういうアクションを起こしてきた以上、避けるのは不自然でもある。
やむなく晶は、亮の口元に耳を預けた。吐息を感じるだけで、身体が震えてしまいそうになったが、なんとかそれを我慢する。
じゅん……
(う……どうしよ……)
しかし、股間の“濡れ”は、晶の意思も解さず滲み出てきて、それがショーツに“蒸れ”を生んでいた。
「大丈夫か?」
「えっ」
「いや、その…。腰が、落ち着かないみたいだからさ」
「!?」
“濡れている”ことに、気が付かれた? …晶の身体に、冷たいものが走る。
「その、な……」
しかし、彼は自分を心配している様子であった。そして、なにやら口ごもっている。
「ど、どうしたの?」
「あ、うん。……トイレに行きたいのかな、ってな」
どうやら彼は、下半身の動きが落ち着かないのを、尿意を催したからだと勘違いしているらしい。いくら朝夕共に生活をして、気心を知り合った仲とは言え、シモのことで相手に伺いを立てるのは、ためらいを感じて当然だろう。しかも、女性を相手にすれば尚更だ。
試合中では珍しい、そんな亮の恥じらう様子が、晶には少し可笑しかった。
「違うのか?」
「うん、大丈夫。ちょっと、汗で蒸れちゃったのよ。それが気になっただけだから」
「そ、そうか」
とりあえず、嘘ではない。蒸れた原因にこそ、事実の歪曲はあったが…。
「木戸。そろそろ、試合進めてもいいか?」
「あ、ああ。すまない」
マウンド上でのやりとりは、栄輔の出現によって打ち切られた。
「すっかり、主審がサマになってるわねぇ、栄輔。これで、判定も公平にしてくれたら言うこと無しなのに」
「退場になりたいってか?」
「あらら、そうくるの。はいはい、ごめんなさい」
随分と生真面目に主審を務めている栄輔への茶々に、これまた真面目に反応を返された晶は、苦笑しながら肩をすくめて見せた。
彼とは幼なじみなのだが、気弱で、根性なしで、逃げ足の速さだけが取り得だった昔とは全く違う、地に足がついた落ち着き具合には驚かされる。長男の裕輔が生まれてからは、父親になったという貫禄も加わり、成長した彼の姿を晶の目に眩く映していた。
「まぁ、なんだ…。昔話は、試合が終わってからにしようぜ」
「ああ、そうだな」
「わかったわよ」
こうやって昔なじみが一堂に会するのも久しぶりである。そんな良い機会を逃す手はなく、今夜は蓬莱亭を貸し切りにして“夕食会”を開くことになっていた。その席では昔話に花が咲き、さぞかし盛り上がることだろう。
だが、今はまだ試合の途中だ。和んだ雰囲気を振り払うように、晶はグラブを強く何度も叩いた。