『SWING UP!!』(第1話〜第6話)-150
「あの試合、途中から異様な空気になりました。そのことを、よく覚えています」
饒舌になっている大和の身振り手振りさえ交えた話し振りにいつのまにか、幸次郎だけでなく、桜子と京子も引き込まれていた。
「そのとき僕は、なにか“とんでもないこと”が起きてるんだと思いました」
試合が5回まで経過した時、球場のざわめきの“質”が変わった。それまでの喧騒が嘘のように静まり、しかし、そんな静謐さの中で期待と不安が入り混じった確かな興奮が、球場全体に沁みるようにして広がっていく……そんな不可思議な感覚だ。
6回、7回と、回を追う毎にその興奮が少しずつ強まっていく。そして、8回が終了すると、球場のどよめきがまるで、地震の予兆のような鳴動を起こし、その中に大和も飲み込まれていった。
9回のマウンドに香坂投手が立つと、その鳴動は途端に静まった。自分の中に起こる高鳴りだけが、大和に聴こえる全ての音だった。
これまで1本の安打も許さず、四死球も、エラーもない。ただのひとりとして出塁を許していないマウンド上の投手。そして、9回も着実にアウトを重ね、最後の打者が打席に入ったとき、球場全体の静けさを湛え、張り詰めたようになっている興奮がはじけそうになっている。
60年以上にわたる長いプロ野球の歴史の中でも、数えるだけの投手しか達成していない大記録……“完全試合”が達成されるその瞬間を、異様な興奮の中で観客たちは待っていたのだ。そして、大和もその中のひとりだった。
「僕が試合をしているわけじゃなのに、すごく苦しかった。それぐらい、球場の中にはプレッシャーがありました」
そんな中でも飄々としながら、香坂投手は最後の打者をピッチャーゴロに打ち取った。強烈な当りだったのでその瞬間は悲鳴が上がったが、センター前に抜けようかという打球を俊敏にも捕まえて、何事もなかったかのように一塁に送球し、アウトにしたのだ。
球史に残る大記録、“完全試合”が達成された瞬間であった。
「その瞬間のことは、実はよく覚えてないんです」
溜めに溜められた興奮が一気に爆発し、凄まじい歓声が球場を覆い尽くす。空席の目立つことが嘘のような、夜空のはるか向こうまで響くのではないかと思う地鳴りにも似た喧騒の中で大和は、“歴史的瞬間の立会人になった”という興奮に我を忘れて父親と騒いでいた。
その騒ぎが静まってきたところで香坂がマウンドを降り、余韻を楽しむように帽子を振って観客の声援に応えていた。大和の声援の中に混じり、何度も“香坂投手、オメデトウ!”と叫んで、手を振っていた。
ふと、そんな香坂の視線と大和の視線が交錯した。
「目があったんです。香坂投手は、とても嬉しそうに笑ってくれました。その後ですよ、“あれ”が起きたのは……」
なんと香坂は、歴史的な大記録となった試合のウインニングボールを、躊躇いもなく観客席に向かって投じていたのだ。微笑みすら浮かべていた香坂の様子を見れば、始めからこのボールを観客に渡すつもりでいたのだろう。しかし周囲は、その行為が信じられないように唖然茫然とするばかりであった。
香坂が投じたボールは緩やかな曲線を描いて、まるで狙っていたかのように大和の両手に収まった。瞬間、球場はまたしても怒号と悲鳴に満ち溢れた。
大和と父親は、揉みあいに巻き込まれた。露骨に大和が手にしているボールを奪おうとする者もいた。しかし、そんな周囲にも負けず、大和はボールを手放しはしなかった。これは他人のものでも、ましてや、自分のものでもなく、とにかく彼は“このボールを守らないといけない”という信念を持って暴力的な圧力に耐えた。
警備員の助けを受け、父親とともに球場の事務室に“避難”した大和は、すぐに警備員にボールを渡し、“香坂投手に返してあげてください”といった。子供とはいえ、このボールが持っている意味の大きさを感じ取っていたのだ。そして、きっと何かの間違いで、香坂投手が観客席に投げてしまったものだとも彼は考えていた。
ところがしばらくして、ボールはその日のうちに、なんと香坂自身の手で大和のところに戻ってきた。