■LOVE PHANTOM■最終章■-1
どれだけ時間が経っただろう。
辺りに人影はなく、噴水は活動を止め、遠くに見える街の光も、ぼんやりと薄暗い。
靜里が目を覚ましたのは、まだ夜も明けぬほどの早い時刻だった。風の音と、巻き上げられた粉雪とが、彼女を深い眠りの国から呼び戻したのだ。長い夢から覚めたような、そんな感じによく似ていた。靜里は上体を起こし、辺りを見回した。
「叶?」
しかし、そこに叶の姿は無く、見えるのは霧のように立ちのぼる雪の姿だけである。靜里は沸き立つような不安を隠せぬまま立ち上がり、もう一度辺りを見回す。
が、やはり叶の姿はどこにも無い。
「叶?どこなの」
問いかけに返事は返って来なかった。
「どうなってるの。私は叶をかばってから、それから」
訳が分からない。靜里は心の中で呟いた。叶をかばった時、確かに自分は死んだ。
体には大きな穴が空き、そこから体中の血が飛び散り、少しすると目の前が真っ暗になった。痛みも、言葉じゃ表現出来ないほど激しくあった。なのにどうだろう、血みどろになった、ぼろぼろの洋服の隙間から見せるのは、真っ白で傷一つ無いつやのある肌である。
靜里は自分の肌に、まんべんなく触れ、傷を探した。
「傷が無い。どういうこと、叶もいないし・・そういえばヴラド・ツェペシュは?」
ふと、雪の反射する光りによって靜里は顔を上げた。
夜明けである。白々と、辺りが明るくなっていく中、彼女はその場へ、ぺたりと座りこんだ。新しい太陽を背にそびえ立つ、街のシルエットが見える。靜里は小さく口を開け、叶の名を呟いた。 しかし、何本もの光のベルトが、差しかかる中、そこには靜里の影だけが長く、長く、伸びていた。
叶が姿を消して、一年と半年が経った。
靜里のいるこの街にも、暖かな風が舞い降り、かすかではあるが夏の訪れを感じさせるようになった。見れば歩道を歩く人々の群れの中にも、薄着をしている者、はたまたいまだに春の服装をしている者もいる。
そんな群衆の中には靜里と幸子の姿もあった。靜里は、真っ白なブラウスの上に淡い空色のカーディガンを羽織り、子供のような、小さな両耳の片方には水銀の滴のような銀のピアスをしている。腰まで伸びた髪の毛は、一つに束ねられ、歩くたび小刻みに揺れた。 その横を行く幸子は、黒のTシャツに青のGジャンをかさね、下もそれと同じ色のジーンズで統一している。髪の毛も相変わらずの色と、相変わらずの短さである。
青々と茂った葉の間から細く広がる、花のような木漏れ日が出来ていた。靜里は、ふと立ち止まり、それを見上げながら言った。
「綺麗だね、幸子」
靜里のうっとりとした横顔を見た後、幸子も上を見上げ、 「そうだね。・・でも、これから死ぬほど暑くなるよ」
と、肩をすくめ、少し笑った。
「見せてあげたいな」
靜里が呟く。
「え?何?」
横を向いて幸子が聞くと、靜里は笑って首を振った。
「なんでもない」
そう言うと靜里は、再び前へ歩きだし、幸子もそれを追った。
「幸子、少し急いだ方がいいんじゃない?ほら、もうこんな時間よ。遅刻したらマスターと浅田先生に悪いわ」
腕時計へ視線を落としながら靜里が言うと、幸子はいたずらに笑って、 「あーらかまいませんことよ!だってあたしたちが二人の恋のキューピットなんだもん。あたしたちがいなかったら、あの二人はなかったんだよ」
と、靜里の腕へしっかりとしがみついた。靜里は呆れたという様子でため息をつく。
「あのねぇ、結局は二人とも愛し合ってたから一緒になったんだよ。私たちなんかただのきっかけ」
靜里の言葉に、幸子は口を尖らせ、靜里の顔をのぞき込み、すぐに笑って見せた。
“OZ”のマスターから、今日のパーティーの招待状を受け取ったのは先月のことだった。
[子供が生まれました。来月の十四日二時に、パーティーを行うのでぜひおいでください] 届いた葉書にはただそれだけ書かれていた。もちろんそれは、靜里にだけではなく幸子の元へも届いたものだ。二人はこの、突然の幸福の便りに、まるで自分のことのように手を取り合って喜んだものだ。