Mirage〜4th.Weakness-2
「何だ。君しかいないのか」
ドアを開けるなり、リクルートスーツ姿の女性は少し嘆くように呟いた。
「俺ですいません。奥原先輩」
僕は手元の資料に再び目を落とし、少し雑に返した。先輩──奥原夕紀(ゆき)から色気が溢れんばかりに乗せられたため息が漏れるのを左の耳で聞く。彼女ならそれだけで男を虜とすることもできるだろう。残念ながら、僕の知人の中には彼女と双璧となりうる人物はいない。
彼女は胸の前で腕を組み、少しだけ黙り込んだ。その沈黙は彼女が思考をめぐらせている時間だと、僕は気付かなかった。
「いや‥‥一度君とはゆっくり話をしてみたかった」
彼女は後ろ手に扉を閉め、ゆっくりと僕の方へと近づく。
「コーヒーでも?」
僕が聞くと、彼女はスーツの上着を壁のハンガーに掛けながら、いい、とだけ言った。僕は、それは教授のハンガーですよ、とは言わなかった。
短いやり取りの後で、会話の必要性の無くなり、僕は再びアルファベットのならんだA4の用紙へと視線を戻し、電子辞書を叩いた。
「君は面白いな」
そのセリフの意図がわからず、僕が顔を上げると、少し離れて座った美女は、目を細め、くぃ、と口の右端を愉しそうに持ち上げた。
「私と2人きりというこのシチュエーションも何とも思わないのか? それとも、それは私の自意識過剰かな?」
関東出身だという先輩は聞きようによっては若干高飛車な標準語で言う。
「ええ。少し調子に乗りすぎているのではないかと思われます」
先輩はふむ、と右の人差し指をあごにあて、少し考え込んだ。どうやら僕の精一杯の皮肉も通用していないらしい。
「しかし、今までこういった状況下で、全く何の反応も示さないのは君だけだぞ。大概の男は声を上ずらせたり、顔を真っ赤にしたり何らかの変化を見せていた」
「‥‥もしかして、ご自分の恋愛遍歴でも披露して下さるんですか?」
僕が顔を上げてそう言うと、彼女は少し困ったような顔をした。
「それはまた今度にしよう。それよりも、私は君がどうしてこのゼミにいるのか、と思ってな。経済史のゼミなんかよりも近代ヨーロッパ経済や金融関係のほうが遥かにおもしろいと私は思うけれど?」
どうしてこのゼミを選んだか。そんなこと、ゼミに入るときの面接や書類に書いたはずだ。それをどうして今更彼女は何を聞きたいのだろう。彼女たち上回生もゼミ生の選考には携わっていたはずだ。
「歴史の中における経済学の変遷や重要性について──」
「違うだろう?」
先輩は切れ長の双眸をさらに細めて僕を射抜いた。それでいて、口元の笑みは実に愉しそうだ。
「そんな三文芝居はそろそろ辞めたらどうだ? 神崎幸妃? 私が何もわかっていないとでも思うのかな?」
腕を組んで僕を見下ろすような彼女から逃げる術を、僕は持っていなかった。