今夜降る奇跡の下で-2
どうしても、彼女から目が離せなかった。磁石につく砂鉄みたいに引き寄せられた。しかししばらくすると、彼女は腰を上げ、そのままキャンパスから消えてしまった。僕は彼女の背中が小さくなり、やがて見えなくなるまでその場から動けずにいた。それからだ。度々、彼女をキャンパスで見かけるようになったのは。その人はいつも同じベンチに座り、そして決まってしばらくぼうとした時間を過ごしては消えた。そうしたことがしばらく続き、そしてつい先日のことになる。
昼食をすませた僕が、順と一緒にキャンパスを歩いていた時のこと。例の場所で、彼女を見つけた。ベージュの長袖のカーディガンとすとんとしたスカートといういでたちで、その人はベンチに座っていた。
僕の視線の先に気が付いてかどうかははっきりとしないが、あれ、と順はぽつりと言ったのだった。あれ、杉浦じゃないか、と。
彼女の名前は杉浦紅葉。僕らの二つ上。つまり二十四歳で、順とはしばらく前までバイト先が一緒だったという。
「まあ、すぐに俺のほうがやめちゃったけどな。いい人だったよ。美人だし人気もあった」
学校帰り、途中のコンビニで買ったタバコをくわえながら順は言った。やつがしゃべる度に小さな火がゆらゆら動く。
「でも何でかな。うちのOBでもないのに毎度来てるなんて」
言いながら僕を横目に、やつはにやりと唇のはしをもちあげた。
「案外、彼氏待ってたりしてな」
ちっとも案外じゃない。どっちかと言えば、それはかなり可能性の高い理由だ。もしくは誰か好きな奴がいて、そいつを見に来ていたということだって考えられる。そんなことをほんのちょっとでも思っただけで、胸の奥がつぶれるほど痛んだ。言葉に出来ないような焦燥感に、めまいさえ感じた。これほどまで彼女のことを想っていた自分に、少し驚きさえ感じたくらいだ。
僕が杉浦紅葉に告白したのは、それから一週間ほど経ってからのことだ。考えに考え抜いて出した答え、というよりは、しだいに肥大していく彼女への気持ちが自分でも押さえ切れなくなってとった、衝動的な行動に近い。とにかく僕は、まるで挑戦状でもたたき込むような勢いで彼女に告白した。冬日のようなうっすらとした笑顔。
それが彼女からの返事だった。
「兄貴。俺、彼女が出来たんだ。二週間くらい前になるかな」
薄暗い部屋。闇を揺らすロウソクの明かりに向き合いながら、僕は兄の仏壇に手を合わせた。
「杉浦紅葉っていうんだ。年上なんだけどさ。ああ、そう。兄貴と同い年だな、彼女」 二年か。兄が逝って、もうそんなに経ったのだ。胸のうちには、あの頃のまま歳をとらないでいる兄の姿があった。当時付き合っていた恋人との結婚を親父に反対され家を飛び出した兄。あの日、兄がそこで家にとどまってもう少しだけでも親父への説得を試みていれば、きっと交通事故なんかに巻き込まれなかったに違いない。兄貴の、馬鹿野郎。あれから、親父がどれだけ小さくなってしまったか分かっているのかよ。親父は、結婚を駄目だとあたまっから否定した訳じゃなく、まだ早いと思って反対したんだ。
・・・それなのに。
突然、携帯が鳴った。
静寂の中にいたせいか、着信音がやけに響いた。慌ててジーンズのポケットから取り出し、耳にあてる。
「もしもし」
「あ。もしもし」
くせのあるちょっと低い声。それが誰であるかはすぐに分かった。紅葉だ。
「どうした?」
仏壇から移動し、階段をかけ上がる。
「んー。別に。なんか声ききたくて」
身がよじれそうな歓喜を押さえながら、至って平静を装いながら僕は笑った。
「秋良、今なにしてた?」
「ん?家でくつろいでたよ」
一瞬、向こうに沈黙が生まれた。自分の部屋に入った僕は、ベッドへ腰掛けて時計へ目をやる。
「紅葉、時間ある?」
え、と彼女は驚いたように言った。本当は彼女が言いたかった言葉を、僕が代わりに言ってやる。
「昼飯、一緒にどう?」