「人魚」(前編)-2
「この化け物、片してくれんなば、鯖も鰈も安う売ったるわ。なあに、このまま東外れの浜辺あたりにでも連れて行って、ガソリンでも掛けて燃しちまえ。動かんけぇのう。え?どうだい?」
と凄みをきかせて言った。さっきとは打って変わって、前科十犯もあながち嘘ではないような恐ろしい目をしている。
潮の香りと、血生臭い匂いが鼻腔にいやらしくまとわりついた。ざざぁっと鉛色の重たい空気が流れた気がした。
その時だった。そいつの既に乾いてしまった、青白い背中の皮膚が、ぴくんと痙攣した。そして、そいつはゆっくりとその頭を挙げたのだ。
―その目。妖艶な輝きをちらつかせる濡れた瞳。ひび割れカサつき、白くなってしまった唇。蒼白い、血の気の引いた頬。
やめろ・・やめてくれ・・やめてくれ! その目で俺を見るな・・・その唇で、再び俺を罵る気なのか―。
もう・・・ゆるしてくれ。
記憶が断片的に脳をよぎる。最後の言葉はなんだったか・・・。耳許で、心臓の鼓動がどくどくと聞こえた。冷や汗が背中の真ん中をつたっていくのがわかる。いや・・・違う。あいつは・・落ち着け!そんな筈はない。よく見ろ!鼻だって頬骨だって眉の形だって全然違う。こいつは化け物なんだ・・・。早いとこ始末してしまわないと。また・・・
「い、板長にはその・・・」
「ああ、もちろん黙っててやる」
俺は、手汗をかいた掌を固く握り締めた。狒狒の爺は、先ほどの強面をふっと緩め、再びあのいやらしい笑顔を作った。
「当たり前やろ。余った金で、盛り場のねえちゃんらとでも遊んだらええ。若いんやからのう。わしらも面倒は御免じゃ。は、は、は、は」
錆び付いたような笑いが耳に残った。
煤けたシャッターの向こうに海女たちが、何か得体の知れない肉の塊を吊るしていた。遠すぎてよくわからない。肌色の肉塊。アンコウかなにかだろうか。
俺はぐったりとしたそいつを右肩に、左手に魚の入った発泡スチロールを持って市場を後にした。
朝の空気が淀み始めていた。