In the moment −hirotaka−-3
未琴は女の子を抱き上げると、泣き出しそうな瞳で僕を見つめた。何かを聞いて欲しいような、だけどそれは、頼むから聞かないで欲しいと訴えているようでもあった。
と、胸ポケットに入っていた携帯電話が振動した。裕也だ。僕は黙って靴を履き、怪我の手当ての礼を言ってドアを開けた。
「弘貴」
背中からの声に、立ち止まる。
何げない表情を作るのに苦労した。普通に見えたかどうかも、分からない。娘を抱いたままの未琴は、何度も何かを言いかけて、結局ろくな言葉を口にする事なく、一言だけ「ごめんなさい」と言って頭を下げた。
「気にしてないよ」
嘘をついて、僕はドアを閉めた。
何も手につかない、ということが本当にあるのだということを僕はこの一週間で知った。飯は普通に食べるし眠りもする。仕事だって定刻どおりに向かって、いつも通りにこなしていたと思う。それなのに、自分がものすごく上の空で生活していることに、僕はとっくに気が付いていた。そう。目の前にあるものは全て条件反射だけでこなし、一方、頭の中を占めていたのは、いつも未琴の事ばかりだった。
正確には未琴と、未貴の事だ。
今から考えれば、一週間前に出会ったあの女の子の顔には、確かに未琴の面影があった。くっきりとした二重の瞼や、大きな瞳なんかそっくりだと思う。あの子は、間違いなく彼女の娘だろう。だけど、それでは父親は? あの子は僕をパパだと言った。父親が近くにいる子供が、そんなことを口にするなんて、どう考えてもおかしい。そういえば写真を持っていると言っていた。僕と未琴が一緒に写っている写真を。
子供。あの時の未琴のこわばった表情。彼女が僕の前から消えた理由。そこから導き出される答えは、どんなに頭を働かせてもひとつしか思いつかない。
再び未琴の自宅へ足を運んだのは、それからさらに一週間経ってからのことだった。もう一度、彼女に会ったところで、そこから何かがはじまるとは思えなかったけれど、会って話をしないことにはこのもやもやした気持ちは晴れてくれそうにもなかった。
天気のいい、日曜の朝だった。
雪道をとぼとぼ歩き、三十分程で目的地にたどり着いた。前の晩から何度も気持ちの整理をつけたのに、少しでも気を抜けば怖じけつきそうだった。そして三神家の門の前まできてから、僕は足を止めた。家の周りには車が三台ほど停まっていた。そして入り口の隅には、家の不幸を示す杭が打ち込んである。 口の中が一気に干上がっていくのが分かった。何かとてつもなく嫌な予感が、僕の体をぐいぐい後ろへ押した。それでも僕は向かい風に抵抗するように門をくぐり、呼び鈴を鳴らした。
出てきたのは、年配の女性だった。きっと未琴も歳をとればこんな感じになるんじゃないか、そう思ってからはっとした。だけどそれは、どうやら向こうも同じようだった。
その女性の泣き腫らした瞳を目にした瞬間、僕は両足が、ずぶずぶとコンクリートの中へ沈んでいくような感覚を覚えた。それは四年前のあの日、主人が不在となった部屋に立ち尽くした、貫かれるようなあのどうしようもない絶望感によく似ていた。
砂浜に雪はほとんど無く、僕と未貴はそのわきの石段に腰掛けることにした。未貴が言うには、ママの好きだった場所だという。確かに彼女は海が好きだったし、ここには海しかなかった。黒っぽい洋服を着せられた未貴は、僕に寄り添うように座っていた。地べたに座らせるのはかわいそうだったので、抱き上げてひざに乗せてやると、彼女は小さなやいばを見せて笑った。
心不全だった、と未琴の母親は言っていた。 三十分ほど前、彼女の仏壇の前で、それを聞いた。人よりもずっと体が弱いことは、僕だって知っていた。だけど心臓を患っていたことは初耳だった。去年、大きな手術をしたことも。
未貴が、未琴と僕の子供であることも確認した。彼女が僕の前から姿を消したのは、やはりそれが理由だったのだ。