H.S.D*5*-2
「あの夜…て?」
「あの夜っていうのは、音羽ちゃんが津川ちゃんと楽しそうに学校へやってきた夜」
矢上は悪戯っ子のように笑った。
「教室から見てたんだよ。あの夜はすごく月が明るかったから。ハッキリ顔の表情まで見えた。津川ちゃんと楽しそうに何か喋ってたでしょ?」
…敢えて言うまい。あなたの悪口を言っていたなんて。
「じゃあ…あの幽霊もやっぱり矢上?」
「…だったら?」
矢上はニッと八重歯を見せた。
「最低からヤな奴にランクアップ…」
あたしはボソっと呟いた。
基本的にあたしは人から見下されるのが嫌いだ。掌で遊ばれるというようなことは、絶対にさせない。
だけど今のあたしはどうだろう。
矢上には上手い具合にからかわれているような気がする。ドキドキさせられたり驚かされたりと、矢上のいいように動かされていないだろうか。
思い出すのはあたしの反応を見て、楽しそうに笑う矢上の顔だ。
現にあたしの答えを聞いた矢上は
「サァーンキュッ」
と言って、机の上で組んだ腕の中に顔を埋めた。
完璧に矢上に遊ばれている。
あたしはまさに『矢上の国のアリス』だ。矢上の国に足を踏み入れてしまっている。
でも、なんでだろう。
それをあたしは嫌だとは思わなかった。
確かに遊ばれるのは嫌いだし、からかわれるとムカつく。だけど、不思議と悪い気はしなかった。
きっと…。
それはたぶん…。
あたしが、矢上の笑顔を見たいと思ってるからだ。あたしの反応を見て、ちゃんと笑ってくれる矢上を見るのが好きなんだ。
『矢上だから』っていうのとは違う気がする。
あたしの『反応』を見た矢上の『反応』が、あたしのムカついた気分を晴らしているらしい。
あたしは窓をバックに目を閉じている矢上を見つめた。腕の隙間から見える睫毛は、女の子ように長い。
背後から日を浴びて、矢上の少し茶色い髪は、さらに、キラキラと輝いているようだった。
あたしはフゥッと短く息を吐き出してから、結構進んでいた授業のノートを取り始めた。
六時間目の授業が終わり、さぁ帰るぞと意気込むあたしたちの前に、文子先生が登場した。
「はぁーい、みんな一回席着いてぇ〜!」
「はああぁぁあ!?」
クラス中から不満の声が上がった。
そりゃそうだ。部活を引退した高校三年生は、放課後こそがエンジョイタイム。部活に縛られていた今までとは違い、バイトにデートにカラオケにゲーセン…。ここぞとばかりに羽を伸ばす。今日も今日とて、街に繰り出すボーイズ&ガールズを止めることは誰にも出来ない。
にも拘らず、この教師は奴らの娯楽を妨げてしまったのだ。彼らの怒りを買わない訳がない。
「せんせぇ〜。バイトなんすけどぉ」
「あたし、友達と待ち合わせしてるの!」
「病院の時間が…」
などという言葉が飛びかって、誰も聞く耳を持たない。そんな中
「音羽さん、瑞樹くん、ちょっとちょっと…」
黒板の前から先生が手招きをしたので、あたしは首を傾げながら先生に近付く。矢上も不思議そうだ。
前に出ていったあたしたちは、横に並んで先生と向かい合った。
普通ならば、二人で前に出されるなんて目立って恥ずかしいことなのだが、今、クラス全体はザワザワと騒がしく、あたしたちが前に出ていったのに気付く人間は、一体何人いるのだろうか。