微笑みは月達を蝕みながら―第壱章―-1
白〈ハク〉は、目を覚ました。
久しぶりに昔の夢を見ていた。絶望と恐怖に支配されていた時。想い人を、大切な人を自分の手で、
「………!!」
昔の話。もう、何百年も前の話だ。思い出すこともなかったのに、何故今頃になって夢に見るのか。
「……わかんないよね」
腹に力をこめて、体を起こした。
今日も、一日が始まる。少なくとも、恐怖には支配されてないのが、今の救いだった。
「……レンさんを起こさないと」
自分達は、人間ではないが。
永久不変のモノなど、何もないのだ。
がんがんがんがんがんがんがんがんがん…………
半鐘のような、鈍い金属音が部屋に響いた。
「起きてくださいがんがんがん」
がんがんがんがんがんがんがん……
「夜です夜ですがんがんがん。起きてくださいがんがんがん」
耳障りな金属音を間抜けな擬音で、無感情に表現する。
完全に外からの光が入らないその部屋に、腰まである艶やかな黒髪をもった女が寝ていた。
だがさすがにその喧しい音に、目を開け、音の方向に顔を向ける。
「…………」
顔を向けただけだった。
布団に潜り、二度寝を敢行しようとする。
女の寝起きが悪いことはいつものことなので、白は諦めたりはしない。
中華鍋とお玉を床におき、布団をはぎ取り、
「起きてくださいがんがんがん!!!」
耳元であらんかぎりの大声で叫んだ。
女が飛び起きる。
「おはようございます、レンさん」
とびっきりの笑顔で、言ってやった。
「………おはよう、白」
覚醒未満で耳を押さえていたが、それでもレンは微笑んだ。
てきぱきと白が食事の準備をしてる間に、レンは顔を洗って歯を磨いて、普段着に着替えていた。黒のハイネックのセーターに黒のストレートパンツというのがレンの普段着だ。
トーストにゆで卵、サラダにインスタントのコーンスープと、簡素故に食欲に関係なく完食可能なメニュー。一日の最初の食事は必ずこのメニューで、それは白がこのメニューしか作れないからだ。
「ねえ、これ私の部屋に置いていったんだけど」
起こすために使った中華鍋とお玉を投げ渡された。
「すみません、忘れてました」
何の感情もない謝罪にレンは苦笑する。
「もう少し丁寧に起こせない?」
「丁寧に起きてくれるんですか?」
「……無理ね。私、夜に弱いから」
人間なら朝に弱いと表現するんだろうなぁとちょっと思った。
「でも、もう少し寝かせてほしいのだけど。せめてあと三十分」
「ダメです。それを認めたら、レンさんはずるずるずるずるベッドに引きこもるでしょう。それはもう、モグラのように」
レンは小首を傾げた。
「なんでそんなに私のことが分かるの?」
「長い付き合いですから」
レンのことを理解ったことなど一度もないけど、それは言わなかった。
鈴のような軽やかで涼やかな声も、美貌という言葉が陳腐なほど整った顔立ちも、女性としては長身の整ったプロポーションも、常に微笑みを浮かべたどこか現実離れした雰囲気も全て、それこそ出会った時と変わらないのに、その精神だけ何故か変わった。変わる前も変わった後も、白にはよく分からない存在だ。