金木犀の誘惑-3
[金木犀の誘惑]
東京本社での仕事にも慣れ、あっと言う間に2ヶ月の歳月が過ぎ去った6月初旬。梅雨の到来を告げる様に、湿った天候が続く週末の夜。静まり返った会社で独り黙々と企画書に眼を通していると、デスクの電話が突然鳴り響いた。トゥルルル…
既に23時を過ぎた深夜。「一体誰だろう?」留守録テープに切り替わる直前、反射的に受話器を取り挙げると、聞き慣れた美声が受話器越しの大樹の鼓膜を擽っていた…。
「部長?大塚です、本社の5階の灯りが見えたので、気になって電話してみたんです、やはり部長だったんですね?」
「大塚君?驚いたよ!」
「忘れ物かい?」
「通りに面した窓から見下ろして見て下さい!」
言われるままに、通りに面した窓ガラスを開けて見下ろすと、階下で手を振る恵子の姿を確認した大樹は、慌ててデスクの受話器を取り直した…。
「この時間に忘れ物?」
「歩いてたら灯りがみえたので電話してみたんです!」
「やはり部長でしたね」
「歩いてって、傘もささずに何処から?」
「新宿からです…」
「前に部長とご一緒したお店からです、ちょっと飲み過ぎちゃって…」
「なら、ずぶ濡れじゃないか!今下に降りるから」
そう言って受話器を置くと、小走りにエレベーターホールまで駆け寄り、一階のエントランスホールまで降りると、正面入口でうずくまる恵子に、ただ戸惑う大樹だった。
都会の喧騒も静まり返った深夜、外は小雨模様を呈していた…。
「びしょ濡れじゃないか!取り敢えず上に上がろう」
うずくまる恵子の肩に手を回すと、ツンとしたアルコールの匂いが大樹の鼻孔を突き、おぼつかない足取りは、明らかに酔っている事が明白だった。
5階にある応接室の照明をつけ、酔った恵子を3人掛けのソファーに横たえさせると、照明で照らし出された恵子の姿態は想像以上に濡れていた。
39歳、一度離婚歴がある事も知っていたし、男であれ女であれ、独り飲みたい夜がある事も自然な欲求、横たわる恵子を見つめながら、多くの言葉は不要だった…。