パルティータ(後編)-8
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あのとき、別れたいと言い出したのは妻の方だった。男が女と別れるには理由があるが、女が男と別れることに理由はない。それは女の方の《感覚の問題》なのだと彼は今でもそう思っている。だから妻は彼と別れるときに理由を言わなかった。少なくとも夫である彼以外に、妻が寝ることができる男が別にいたということは、妻にとって感覚の問題なのだと思った。
彼が出張から予定より早く家に着いたとき、外から見た寝室にぼんやりと明りが灯り、朧な影が蠢いていた。庭先から寝室の窓に近づき、窓のカーテンのすき間からガラス越しに中を覗いたときだった。
いつも彼と妻が使う寝室のベッドの上で、裸の妻と見知らぬ男が薄い灯りの中で重なり合っている姿が見えた。それはいつも見ていた妻でない、別人のような妻の姿だった。妻は形のいい乳房をきりきりと搾られるように黒々とした縄で後ろ手に縛られ、男の浅黒い肌をした胴体に開いた太腿を絡ませ、足先をそり返らせていた。
男の顔は見えなかった。鋳型のような浅黒い背中の肌に微かな汗が滲んでいた。縄が喰い込んだ妻の乳房を鷲づかみにしている男の無骨な掌、妻の白い露わな太腿のあいだを割って揺れ動く男のたくましい尻。そして彼がこれまで聞いたことのないような妻の粘るような喘ぎ声……それが、彼がのぞき見た憧憬のすべてだった。
彼はその場を離れ、家から遠ざかった。背後から妻の喘ぎ声がいつまでも追いかけてきた。見るべきでないものを見てしまったという後ろめたさがじわりと湧きあがってきた。
翌日、彼は家に戻ると妻に言った。昨夜、一日早く、ここに戻って来たんだ。妻は下着姿で鏡の前で化粧をしながら、彼の方を振り向くことなく冷ややかに言った。そうなの………それで寝室のベッドの中のわたしたちを見たというわけね。
妻の《わたしたち》と言う言葉が彼を突き放した。あの男とはいつからああいう関係にあるんだ。そう言った彼の方に、やはり妻は顔を向けることはなかった。
その関係をあなたが知ったとして、それがあなたにとってどういう意味があるのかわからないわ。ひとつだけ言っておくなら彼はあなたと違って、とても素敵なサディストなのよと、妻は言った。
そういうことを聞いているんじゃないと彼は苛立ちを隠せないまま、妻の裸の肩に手をかけて言った。
妻はその手を振り払うように彼の方を振り向いた。その意味にあなたが気がつかないということは、あなたがわたしを見失い、あなた自身も自分を見失っているということかしら。でもあなたにはやっぱりそのことに気がつかない。だからこれ以上の話をするのはよした方がいいわ、と妻は言った。
彼は落ち着きを取り戻すかのように深いため息をついた。感覚の問題だな……。その彼の言葉に妻はまるで別人のような笑みを見せて言った。わたしは、ただ自分が自分であるという感覚が欲しかっただけだわ。そのためにサディストのあの男と寝たのよ。
それが妻と交わした最後の言葉だった。十年前の遠い記憶がよぎっていく。男は眠りにつくことができなかった。外はまだ暗い。永遠に真夜中が続くような気がした。
男は何も身に付けることなくベッドから起き上がると、テーブルの上のスコッチウイスキーをグラスに注ぎ、開け放された窓際に佇む。
グラスから琥珀色の液体を咽喉に流し込む。胃の中に火照りを感じたとき、ひんやりとした闇の空気が彼の肉体を包み込んだ。彼の中に空洞が生まれ、どこからか滴り落ちた水滴の音がした。それが飲んだウイスキーの液体なのかは定かでなかった。その音の波紋がすっと拡がり、消えていく。
考えてみれば、彼と妻のあいだには意味をもつ言葉も行為も、そして何よりも《ふたりの関係を示す確かな事実》が喪失していたような気がした。妻を愛したという事実、妻を抱いたという事実、妻の中に射精をしたという事実。それは事実でありながら、どんな意味のある痕跡も彼と妻のあいだに残さなかった。ただ、はっきりしていることは、妻の肉体に夫である彼がけっして知ることができなかった不確かな無垢の記憶が眩しく彩られていたということだろうか。
妻はもう過去の女なのだ………男はそう思い続けようとしていたが、妻の記憶は、彼自身の現実という時間に執拗に絡んできた。その理由はわかっている。妻があの老人に買われたことが、事実として妻をふたたび彼の現実へと引き戻していたのだ。妻があの老人に所有されている……その事実が彼の中にある妻の性的な不在を揺るがしながらも、その意味を、引いては寄せるさざ波のように彼に問いていることが不思議だった。
彼を妻から遠ざけるようにあの老人の手や指、唇や舌が妻の心と肉体のあらゆる部分に触れていることを想うと、男は烈しい自慰の欲求に襲われた。目を閉じ、彼は自分のペニスに手を添えた。肉幹の輪郭やしなりが微かに堅さを含み、血流が息づいてきた。