パルティータ(後編)-7
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老人はベッドの上に横たわった女の傍に体を添わせる。目隠しをされ、後ろ手に手錠を嵌められた女の肉体は、彼女に懐かしい無防備さを与えていた。老人の乾いた皮膚が彼女の肌と重なり、かさかさと渇いた音をたてる。女は、五十歳の膿んだ自分の体が老人に汚されれば汚されるほど肉奥に熱を目覚めさせるような予感がした。
老人に買われたと言っても、女が家の外で老人とすごす時間はきわめて日常的なものだった。外を散歩したり、カフェでお茶をしたり、ホテルで食事をしたり、歳の離れたふたりは周りから見れば、仲のよい親子ほどに見えただろうか。ただ屋敷の中では日常は、非日常へと変わった。屋敷では、女は一切、衣服を纏うことは許されず、全裸で首輪をされ、檻に囲われ、老人の舌と指に肉体を晒し、彼の下腹部のものに癒しを与える。それは明らかに買われた女の役割として老人が与えた彼女の姿だった。
現実の自分と不在化された自分の境界で、何かのストーリーが女の中に描かれようとしていた。それはきわめて微かなものであり、ストーリーが何を語ろうとしているのかわからなかった。いや、わからない希薄さが女の中を密やかな性へと攪拌(かくはん)していった。
女の肌を這いまわる老人の舌や指の感覚、陰毛に絡みながら肉の合わせ目に滲み入った彼の粘っこい唾液の痕跡、老人の性器を唇に含んだときの舌の感触………それらのすべてがきわめて濃く感じられ、甘美な性の既視感が女の肉体を酔わせた。老人はそういうことが女に対してできる男だった。そしてそんな男に彼女はこれまで出会ったことがなかった。
老人は唇と指で女のあらゆる部分を見逃すことなく愛撫した。鎖骨の窪みを、腋窩の翳りを、ゆるんだ乳房の谷間を、下腹の肉のたるみを、陰毛のすき間を、太腿の内側を、足指のあいだを。彼の唇からは彼女を汚すための涎が滴り、彼女の肉体のすべての毛穴に唾液を擦り込んだ。
女が体をよじると背中の手錠が手首に痛々しく喰い込んでくる。
「すでにあなたは、あなた自身が失った自らのストーリーを描いているのです……」と老人は独り言のようにつぶやいた。
女の体の奥がふつふつと発酵を始め、老人の生臭い唾液と混ざり、肉襞に膜を作り、徐々に硬
化していく。老人の舌が彼女の膿んだ肉体の輪郭を浮き彫りにし、曖昧な肉体を確かな肉体として疼かせ、女はひりひりするような肉体の感覚に目覚めていく。それはまぎれもなく五十歳に達した女の肉体を嫌でも感じさせた。老人は、彼女の肉体のどんな部分にも視線を注ぎ、触れ、唾液をまぶし、蝕んでいく。それは甘美で懐かしい羞恥を女に目覚めさせ、肌の裏側に熱を溜め、確かな肉体の高揚に繋がっていった。
その日は朝から雨が降り続き、夕方になっても止む気配はなかった。老人が邸(やしき)に帰ってきたのは夜になってからだった。
老人はワインを少し口にすると、首輪をした裸の女を跪かせ、髪を愛おしく撫でながら言った。
「今夜は、特別な楽しみ方をしましょう」
クロゼットだと思っていた扉の先には数段の階段があり、さらにその先には黒く塗られた扉があった。そして老人は女をその部屋に導いた。中はひんやりとしていた。八角形の奇妙な部屋には、濃い赤の床タイルが張られ、天井からは淡い光を放つふたつのランプが吊り下げられ、そのランプのあいだにある滑車には鎖の束が不気味に垂れ下がっていた。目が部屋の仄暗さに慣れると女は八角形になった部屋の壁がすべて鏡になっていることに気がついた。その鏡のすべてが女と老人を映し出していた。
「わたくしがあなたに与える苦痛によって、あなたはこれまでよりもっと深いところにある、あなた自身の影を感じ、忘れ去ったあなたの記憶のストーリーを描くことができるのです」と老人は言った。
腕の先の手首に鎖の付いた革枷が巻かれ、老人が壁のハンドルを回すと滑車がゆっくりと軋み始め、鎖が引き上げられていく。頭上の腕が伸び切り、背筋が伸び上がる。爪先が床にわずかに触れるところで滑車が止った。革枷が手首を締めつける。
鏡に映った自分の全裸の姿に、女はこれまでよりもっと無防備な恍惚感を覚え、それはやがて濃厚な肉体へと昇華していくよう気がした。痛々しく拘束されているのに自分の中に自由な何かが浮遊してくる不思議な感覚だった。
老人は女の姿に満足したように笑みを浮かべ、扉の傍の壁に掛けられた黒い一本鞭を手にして言った。
「あなたを痛めつけたいというわたくしの欲望と、わたくしに痛めつけられたいというあなたの欲望は、あなたの閉じられた記憶を解き放つのです」