パルティータ(後編)-6
老人の肉幹が女の鼻先で淫らによじれた。彼の前に跪いた自分が無防備だと感じたとき、なぜか自然に女の唇が老人のものに向けて開いた。目の前のものの実体が感じられないのに、輪郭が幽(かす)かに揺れ、何かの風景を、どこかにある記憶を、彼女に感じさせた。
唇が老人の性器の先端に触れた。舌が乾いた亀頭に添えられる。ものに触れているというのに、触れているものの感覚は曖昧(あいまい)だった。無重力の容器の中に漂う無機質のものを追っているような感覚……それは女の中にある何かを疼かせた。女は瞼を閉じると、ゆっくりと老人のものを唇のあいだに含んでいった……。
細く柔らかく見えた老人の肉幹は、雁首を唇に含んだときには堅いふくらみが感じられた。太さと細さ、柔らかさと堅さの感触が老人の脈動を含みながら交互に感じられ、舌が触れるところが粘った泥濘(ぬかるみ)のように蕩け、彼女の舌を溶かしていくようだった。薄い包皮から血管が迫り出し、血流は疼く彼の体温を仄かに、静かに含んでいた。醜悪なものの感覚は女の中からいつのまにか消えていた。そして醜い老人のペニスは、女を汚す以上に淫らで赤裸々な快楽を彼女に与えていた。
老人は言った。「あなたはわたくしに所有されている女性です。その想いをわたくしのものに伝えてください」
老人のものを咥えた女の唇も、体の芯も、何かに浄化されるように冴え冴えとしていた。こんな経験は初めてだった。女は自分が咥え、しゃぶり続けているもの以上に、老人のものをもっと深く欲しくなっていた。欲しがる彼女の肉体がいつのまにか炙られるように火照り、疼き、狂わしいほど悶えていた。
ふたりのあいだには、所有された意識と、所有している意識だけが交錯し、そこに老人の性器だけがあった。遠くから不透明な記憶の旋律が流れてくる。老人は、女が知らない記憶をすべて知っているような気かした。それは彼の息づかいであり、微笑みを含んだ瞳であり、髪を撫でる指であり、そして脈々と流れるペニスの血流であり、何もかもが女の遠い記憶だけに向けられていた。
女はとても長い時間、老人のものを咥え、愛おしく舐め続けた。溢れる唾液が迸り、唇の端から涎となって糸を引くように滴り落ちた。老人は女の髪を撫でながらじっと眼を閉じ、顔を宙に向けて何かに深く浸り続けていた………。
…………
あれから久しく人妻は男の前に現われていない。連絡もなかった。そもそも男は女の名前も、電話番号も知らされていなかった。いや、知らされていないというより、男が当然のように人妻のことを何もかも知っているものと彼女は思っていたかもしれない。あのとき、男は彼女を監禁する約束をしたが、その始まりの日に彼女はここにやってくることはなかった。
翌日、手にした週刊誌の小さな記事が目に止まった。A子さんと称された写真の女はあの人妻だった。記事には、歯科医の夫が彼女を一か月ものあいだ家の地下室に監禁し、虐げていたというものだった。女性の姿を見なくなった知人が不審に思い、警察に通報したことで事件は発覚した。歯科医の夫が妻の浮気に逆上したことが動機だと書かれてあった。記事は生々しく監禁の様子を綴っていた。後ろ手に手錠をされた妻は全裸で檻に監禁され、排泄は檻の中でさせられ、食事はいっさい与えられず、彼女が口にしたものは夫の精液だけだという。さらに彼女の体には鞭の痕が幾筋も残り、さらに煙草を押しつけた痣が体に何か所もあったらしい。幸い命に別状がなく、彼女は精神的に錯乱状態にあるが徐々に回復に向かっているという内容だった。
男は手にした週刊誌をテーブルに置き、煙草に火をつけた。肺の奥に煙を深く吸い込み、目を閉じる。夫に監禁された人妻の姿が脳裏を横切っていく。夫の顔は見えないのに、監禁した彼女の脚を拡げさせ、彼女の剥き出しにされた性器を眺めているのは夫に違いなかった。ゆるんだ陰唇のなかに肉色の空洞が見える。幾重にも重なった襞は皺が刻まれ、暗い影に塗り込められた肉溝は澱んだ蜜汁で潤んでいる。
男に人妻の性器の記憶はどこにもなかったが、男はここで交わった人妻の気配へ彷徨(さまよ)うように自慰の幻影に浸り込んでいった。それはまるで自分の欲望の不確かな痕をたどる自愛的で、自虐的な行為でなければならないと思った。
淡い部屋の光を縫うような音楽を聞きながら、彼の自慰は《そういうふうに行う》ことを必要としているように思えた。
男は壁の大きな鏡の前の床に全裸で跪き、手にした鞭で自らの肉体を責めた。自ら振り上げた鞭は弓のようにしなり、空を切り、背中に喰い込んだ。苦痛に悶える自分の顔が鏡の中でゆがんだ。彼は何度なく鞭で自らの肉体を打ちつけ、痛めつけた。鞭の苦痛の快感に酔うようにペニスが震え、堅さを増していく。肉幹が喘ぐように伸びあがり、漲(みなぎ)っていく。鏡の中の自分の姿が別の男に見えた。鏡は檻だった。そこには自分とは違う誰かが存在し、誰かが彼を監禁し、鞭で責めていた。檻は彼と誰かを隔て、遠ざけながらも、とても近いものにする。それは彼が自分自身にいだく《不確かな性の記憶》にほかならなかった。
――― そのとき男はもう一度、あの湖畔に佇む少女に会いたいと思った……。