パルティータ(後編)-14
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あなたは自分の欲望の不可解さに畏怖の念をいだき、限りなく敬虔でいられるか……
誰かの声が男の夢の中で聞こえたような気がした。黒いマントですっぽりと顔と身体を覆った亡霊が磔木に拘束された全裸の女の前で揺らいでいた。その声は亡霊が女に囁いた言葉だったような気がした。男はその憧憬をどこかで見ていた。
亡霊の姿には顔はないのに顔の中の眼孔と声の気配だけを男は感じた。そして亡霊は黒い拳銃を手にし、銃口を女に向けていた。
全裸の女は磔木に拡げた手首と足首を左右に裂かれ、恥部を晒している。亡霊は漂うように女に近づき、女の裂かれた太腿のつけ根に、手にした黒い拳銃の銃口を向け、薄笑いを浮かべ、しめやかな陰毛に息を吹きかけるように淫靡な視線を注いでいる。
どこからその憧憬を男が見ていたのかはわからない。その場所に見覚えがあるのに、そこがいったいどこなのかわからなかった。ただ男が《亡霊と女の側》にいることは確かだった。そして彼は《記憶の事実》として、その憧憬をどこからか見ていた。
男は亡霊に拳銃を向けられている女の姿がとても美しく感じられた。それはとても性的な情景だった。女は男にとって、《おそらく意味のある女》だった。ただ、どれほど記憶をたどっても女の意味を思い出せなかった。
男はふと思った。もしかしたら女は別れた妻であるかもしれないと。しかし妻の顔と肉体の記憶は朧(おぼろ)だった。仮に女が別れた妻であったとしても、なぜか別人のように感じられ、自分と関係のない女のような気がした。それなのに男はその女と強い結びつきを感じた。
亡霊はゆっくりと拘束した女の陰部に拳銃の先端を近づけ、湿った陰毛をかき分けるように陰唇をなぞった。虚ろな眼をした女は顎をしゃくり上げられたかのように微かにのけ反った。
その姿をどこかで見ていた男は亡霊が手にした拳銃の銃口に自分のペニスを感じた。いや、亡霊が手にした拳銃そのものが自分の性器だと意識できた。それは女に向けられた銃身が彼の肉体として亡霊に操られ、とても性的な変容をしている感覚だった。そこには女に対する意味のある情欲が漂っていた。隠された記憶の断片がすくい上げられ、奇妙な紋様となって繋ぎ合わされていく。その紋様は何か烈しさを含んだようにきわめて性的に蠢き始める。
ふと眼を凝らすと亡霊は細い銃身を少しずつ女の肉の合わせ目にねじ込んでいる。銃身が女の肉襞の熱を吸い取っていくのが感じられる。男は自分のペニスに女の中の微熱を感じた。亡霊の指が引きがねに触れると、女はまるでそのしぐさを感じたのか下腹部が微かに震えている。
あなたが望むべきことです………亡霊は地の底から湧き上がるような声で女に囁いた。
女は瞳を澱ませ、亡霊の声によって催眠をかけられたように挿入された銃身に襞を絡ませている。
無機質な情景は静寂に充たされている。そのとき男は拳銃の引き金を引くのは、《どこまでも自分だということ》を感じた。銃身は女の陰部に徐々に深くねじ込まれていく。それは《彼自身が女の中にねじ込まれて感覚》だった。
そのとき虚ろな女の顔に微かな笑みが一瞬、よぎったような気がした。その笑みが誰に向けられているのかわからない。焦燥と愛おしさが彼の性的なものに脆さを含みながら増幅していく。その濃厚な拡がりは彼を自虐に追い込んでいく。それは女が見せた微笑のせいだった。彼女は《そういう女》だった………彼をそうすることができる女だった。そして女は彼の妻であるべきだった。
女の中に挿入された銃身が彼のペニスとしてこねられる……それは確かに男が感じるペニスそのものだった。肉幹に女の生あたたかい襞が吸いつく。襞はすでに精液でしっとりと濡れていた。精液はあの夜、妻が交わっていたあの見知らぬ男の飛沫したものに違いなかった。
肉襞の蠢きは彼のペニスにその精液を吸わせるように烈しく迫ってくる。ペニスの先端がまるで彼の唇のように喘ぐ。女の肉襞に滲み入った誰かの精液に浸り込み、貪り、吸い上げ、そして女の蜜汁に燻(いぶ)される。
女は笑っている……いや、妻が笑っていたのだ。彼を記憶の中の夫として捕え、侮蔑するように。妻の肉穴は不気味なほど殺気と狂気に充ちている。それはおそらく彼が妻の肉体に、一度として感じたことのないものだった。
とても長い時間が過ぎたような気がした。不意に亡霊は銃身を妻の陰部から抜き、蜜液でしっとりと濡れた銃身を舌で舐めた。その瞬間、亡霊は跡形もなく煙のように消え、男は、ただ記憶の影として取り残された。
窓から差し込む月灯りが遠い記憶を恍惚とした光で包み込んでいる。
今夜もあなたは、やっぱり拳銃の引き金を引くことはできなかったわ………と、亡霊を失った妻は静寂に身を浸すように小さくつぶやき、冷ややかな嘲笑を頬に浮かべた。その言葉は消えた亡霊に向って言った言葉ではなく、明らかに男に対する妻の言葉だった……。