ラバーン王国のプリンセス-7
「がっ――あっ!」
直後、グレンナは目を見開き、苦しげな声を上げた。
「グレンナ、何が――」
マレーナの目の前で、グレンナの喉元がパックリと裂け、そこからおびただしい量の血が吹き出した。そして彼女は勢いよくその場に倒れ込んだ。室内に敷き詰められた毛足の長い絨毯が、見る見るうちに赤く染まっていく。
(いったい、何が起きたの)
一瞬の出来事に、マレーナの思考が追い付かない。
オズベリヒへ目を向けると、彼の手には短剣が握られていた。刃先に少量の血が付着している。
「全く、どちらが無礼者だ。身分を弁えるのはお前の方だ」
床に横たわって苦しみ藻掻いている侍女に、オズベリヒは冷たい目を向けて言い捨てる。
「グレンナ――」
マレーナが叫びながら彼女に駆け寄ろうとすると、オズベリヒは自分の従者たちに「おい」と目配せで指示を出す。ひとりの従者が「ご無礼」と言いながら、マレーナの両肩を力強い力で掴み、彼女の自由を奪った。
「グレンナッ! 急いで手当しないと……早く彼女を医務室に連れて行ってっ!」
涙ながらにオズベリヒへ訴えかけるマレーナ。その背後では、ファニータとパウラ二人の侍女が、青ざめた顔で身を寄せ合い震えていた。
「無駄です。この女はもう助かりません」
オズベリヒは懐からハンカチを取り出し、短剣の刃先に付いた血を拭いながら冷たい視線を王女に向ける。
「そんな……グレンナ……」
マレーナはただ、横たわるグレンナを見つめることしか出来ずにいた。それと同時に、そんな無力な自分が悔しくて堪らなかった。
「ぐっ……かはっ……」
苦しみに耐えるグレンナの、言葉にならない苦悶の声が室内に響く。
「おい」
オズベリヒは別の従者に声を掛け、
「とどめを刺してやれ」
と命じた。
「やめてっ! これ以上はもうやめてぇっ!」
マレーナが必死に訴える。王女であるという立場は、すでに彼女の頭には無かった。泣き叫ぶその声はごく普通の、年相応の少女そのものだった。
「おやおや、姫君はなんて残酷なお方だ。このまま息絶えるまで彼女を苦しませたいとは」
オズベリヒは薄笑いを浮かべ、芝居がかった大仰な態度で答える。王女の反応を楽しんでいるかのように。
「違う……違うっ!」
マレーナは声を絞り出す。
「ふむ、ではこうしましょう。貴女にその役目をお譲りします。姫君が自ら彼女を楽にさせてあげてください」
オズベリヒが目配せすると、従者は腰の鞘から長剣を引き抜いた。そして刃の部分を手に持ち替え、片膝を付いてマレーナに向けて柄を差し出した。
「そんな……」
マレーナにも理解は出来ていた。今のグレンナを苦しみから開放させるには、楽にさせるには、すぐにでも死なせてあげるしかない。だが、使用人である前に親しい友人であり、姉のような存在でもある彼女を、自分の手で殺すことなどマレーナにはとても出来なかった。
マレーナが差し出された剣を手に取れないことを察すると、
「では、この女のことはこちらに一任する。それで構いませんね?」
オズベリヒは尋ねる。マレーナはただ無言で頷くほかなかった。
彼女の意思を確認したオズベリヒは、剣を持つ従者に向かい「やれ」とひと言命じた。
甲冑を身にまとった従者は、立ち上がって長剣を持ち直し、グレンナの元へ近づいた。うつ伏せで横たわる彼女の身体は、ヒクヒクと痙攣を起こしている。すでに息は無いようにも思えた。身体の痙攣は筋肉の反射作用によるものかも知れない。
従者の男は無表情な顔で、片足をグレンナの腰に下ろして踏み付けた。彼女の身体を固定するためである。そして彼は両手で柄を握った剣の切っ先を、グレンナの背中の中央部分、左右の肩甲骨の間に置いた。彼がこれから何をするつもりなのか、マレーナにも予想が付いた。とても見ていられない、そう思った彼女は顔を両手で覆う。二人の侍女も固く目を瞑って顔を伏せた。
屈強の従者の男は、両手に力を込めて剣を下に押し込む。剣の先が、給仕服の背中にめり込んだ。
「ぐっ……がっ……」
グレンナの身体が仰け反る。顔は目が見開き、口からは女の声とは思えない呻きが溢れた。彼女はまだ絶命してはいなかった。
布地を切り裂いた剣は背中の皮膚に到達し、すぐに背骨に当たる。手に抵抗を感じた男は、剣に体重を掛けた。剣が沈み込み、背骨を破壊する。
――メキメキッ、ゴキッ
硬い物体が砕けるような異音が鳴った。剣先は脊髄とその周囲の神経組織を破断しながら、なおもグレンナの体内にめり込む。
「あっ……がっ……」
彼女の口からは吐血と共に、声にならない断末魔が溢れ出る。同時に切り裂かれた喉の傷口からはヒューヒューと、弱まった呼吸でわずかに肺から送り出される空気の漏れる音がした。
「もうやめて……もうやめてぇ……」
マレーナは両手で顔を覆いながら、祈るように呟いた。だが、今止めることなど出来ない。グレンナを余計に苦しませるだけである。
背骨が破壊されたことにより、剣に抵抗を感じなくなった。男は腕の力のみで、さらに剣を押し込む。剣先が心臓とその両脇の肺に届き、そしてわずかに動き続けていたそれらを貫いた。いや、十分に熟し、柔らかくなった果実を棍棒で力任せに殴りつけるように、人間の生命活動においてもっとも重要な臓器を押し潰したのだ。
――ドクンッ
外部からの圧力で強引に押し潰された心臓は、最後の鼓動を響かせてからその働きを止めた。グレンナの顔が、ガクンと力なく床に伏せた。