パルティータ-5
三か月前、真夜中のカフェで初めてその人妻に声をかけられたとき、男はその女に見覚えはなかった。彼の年齢に比べて、妻でも、恋人でもない年齢の女は、六十歳半ばを超えているように見えたが、女の年齢はわからない。
お待たせしたわ、そう言って人妻は遠慮することなく彼の隣の席に身体を寄せ合うように座った。顔の大きな女はひるがえった短めのスカートから形のいい膝をのぞかせた。豊満な胸をし、中年の女特有の脂肪が感じられる肉惑的な体型をしていたが、ストッキングに包まれた脚は細く、ふくらはぎから足首、そしてオープントゥのストラップサンダルの爪先までなめらかな線を描き、足指のあいだに仄暗い淫らさを想わせた。
ここで女と待ち合わせの約束をした記憶はなかった。そもそも男は彼女を知らなかった。彼は戸惑いながら女に視線を注いだ。どんなに遠い記憶をたどっても思い出せない顔だった。
わたしを知らないって。あなた、わたしの顔を覚えていないの。女は二重になりかけた顎の肉を弛ませ、眉をしかめて目元に皺を寄せ、あきれたような顔をしたが、気を取り直したようにハンドバッグの中からシガーケースを取り出すと煙草に火をつけ、脚を組んだ。
ほら、あなたの視線がわたしの体と関係をもったときの記憶をすでに取り戻しているわ、と女は言った。
腕時計やネックレス、指輪、もちろん装っている洋服も高価なものを身に纏い、飽食を貪っているような贅肉のついた人妻は、魅惑的なハスキーな声を濃いルージュをひいた唇から滴らせた。
とりわけ美しい女ではない。どれだけ彼女が整った化粧をしていても、どちらかというと凡庸な人妻の顔を思わせる。ただ彼女の厚ぼったい唇には男を蔑むようなプライドの高い知性と淫らな気配のある貞操が仄かに感じられた。それは彼の欲望を煽った。なぜならその女の顔の裏側に貪欲な淫蕩さを欲しがっているもうひとつの顔が色濃く見え隠れしていたのだから。女は、いつのまにか男を焦らせ、やがて彼に彼女自身のストーリーに描かせているような気がした。
人妻からの電話が切れると、男は裸のまま半地下になったワインセラーから彼女の好みのスパークリングワインを一本取り出し、氷を入れた器に入れ、テーブルの上に置いた。グラスは突然の来客のためにいつも用意してある。
人妻は男と何らかの性的な関係を求めてここにやって来る。ただ、男は彼女と寝たとしても《ほんとうに性的に抱くこと》はできないと思っている。彼は男性機能において、夢精における自慰を除けばおそらくどんな異性に対しても《不能であるべき》だった。それでも男は人妻に対してストーリーを描き、何らかの関係を持つことができる気がした。それは確かに彼の欲望だと言えるものかもしれないと男は心の中で薄く苦笑した………。
…………
女が四十歳のとき出会った女が若い男は澄んだ秋風を吹き込んでくるような淋(さび)しさを彼女の体に与えた。女はそのとき、《誰かに所有されない肉体の淋しさ》に気がついた。女の体はその男をとても欲しがっていた。心というよりも肉体がひたひたと押し寄せるような甘い郷愁を求めていた。そしてその男とのあいだに、距離のない残酷な親密さを感じようとしたのは、K…を失った彼女にとって、とても自然だったと思っている。
若い男は女がいつも訪れるヘアサロンに、たまたま手伝いに来ていた美容師だった。男はまだ二十歳前半くらいの年齢で、童顔の面影を残し、艶やかな髪を後ろで束ねていた。美しい顔立ちというより清潔な曇りのない瞳をしていた。眼や鼻筋、唇、そして顎の線がくっきりと浮かび、小さい顔の輪郭は微塵の狂いもないほど整い、彼の動作は甘く澄んだ空気を女に匂わせた。
彼に髪の一本一本に触れられていくとき、髪の毛に感じる彼の指はとても細く、優雅で、清潔な匂いがした。それは女の心と体のどんな部分にも触れることができるような気がした。
男の指で耳朶をなぞられたとき、彼の甘い匂いが耳の中に忍び込んできた。男は女の耳元で小さく囁いた。
「どこかであなたとお会いしたような気がしましたが」
「ええ、わたしもそう思っていたわ」と女は言った。
その男の記憶があったわけではなかったが、女の中にある何かの記憶を彼が揺らがせたことが、彼女にそう答えさせた。それは記憶のどこかにあった自殺したスーツケースの男の影のような気がした。顔は似ていないのに、ふたりの男が表裏で同一の人物のような気配が彼女の記憶をくすぐっていることが不思議だった。
「もしかしたら、ぼくが封じ込めた女性のように思えます」と美容師の男は女の耳元で小さく囁いた。
「封じ込めたって……いったいどこに」
「ぼくの記憶の中にだと思います」
そう言った彼の指が鏡の中に映った女の髪のまわりで、静かに、よどみなく魅惑的な動きで横切った。男の肌からとても清潔な匂いがしたとき、女はその匂いに懐かしい澱みを感じ、彼女の肉奥がとても渇いていることに気がついた。