パルティータ-4
――― ただ、その結婚が《K…の命令》であることを、夫となった男は知らなかった。
女にとって結婚は最初から曖昧だった。女は、自分がK…の所有物である意識することによって結婚という事実に意味を持たせた。女はK…の命令であることだけを考えて夫となった男と体をゆだねた。今となっては夫がどんな男だったのかも今の彼女の記憶の中にはなかった。覚えていたかもしれないが、彼のすべてを忘れていた。顔とか、声とか、容姿とか、それに彼がどんなふうに彼女を抱いたのか。そして何よりもその男が夫としてのどんな意味をもっていたのか、何もかも忘れ去っていた。だから今はその夫であった男を《誰か》としか言いようがない。結婚してからも女はK…と関係を続けていた。夫に抱かれた意味のない肉体は、K…が手にする鞭の前で、唯一意味を持っていた。
K…はその後、薬物中毒で逮捕され、療養中に自ら命を絶った。女が結婚して五年目のことだった。女は自分を縛るものを失ってしまった。そして夫という男が必要でなくなった。それが離婚の理由だった。短い、演技のような結婚生活だった。彼女の記憶に残されたものは夫のいない部屋であり、誰の体臭も精液の匂いもしないベッドであり、そしてK…という男からすべてから置き去りにされた空虚な時間だけだった。
K…が書き残した遺書には、女が十七歳のときあの白樺の林にある沼の畔(ほとり)に呼び出した人物がK…であること、そして彼が、《誰か》に彼女を監禁させ、レイプさせたということが事実であることが記されていた。
色彩のない空っぽの風が頬を撫でる。吐いた煙草の紫煙が目の前の暗闇に薄く溶けていく。
女は、ふと漆黒に染まった遠い記憶のなかを歩いてみたくなった。ただ、忘れられた記憶を感じるためだけに。それは突然かかってきた電話の声がそうさせているような気がした。女はスーツケースの男に閉じ込められた自分自身の不在の呪縛を感じた。全裸で身を縮ませ、狭く、惨めな、そして赤裸々に自分を感じること……女はその男のものとして囚われ、閉じ込められ、自分を失い、《自らの不在に自分が知らない影を感じること》に身をゆだねる。きっと自分の不在は意識されていない新たな欲望を女に生む。女はそう思った。
彼女は記憶の中の自分をじっと見つめ続けていた。そうすることで女は自分自身の呪縛に浸り、溶け込み、もっと明らかな不在へと、確かな自分の影へと、浄化していくのかもしれないと思った。
深い眠りの中の記憶の影、白樺の樹木が微かな風にゆれる音、無言の蒼い沼の水面にぼんやりと翳る月灯り。裸になった女の身体はとても自由なのに、体の奥はとても寂しく枯れている。やがて血管の中に不整脈な時間が刻まれていく。それは女の過去の時間をゆっくりとたどっていく。肉体の深淵に潜んだ記憶との情欲に堕ちていくように………。
…………
何度も電話したけど、話し中だったわ。誰かとお話しをしていたのかしらと、電話の先で人妻は微かに焦った声で言った。男は返事をしなかったが、電話からは一方的な人妻の声が聞こえてきた。
もうすぐ、そっちに着くわ。歯科医の夫に診てもらっている歯の治療に時間がかかって、家を出るのが遅くなったわ。夫には古い女友達と久しぶりに会うことになったから、今夜は帰らないって言ってあるの。まさか、あなたって今夜の約束を忘れたわけではないでしょうね。いつものワインは冷やしてあるかしら。今夜はとても蒸し暑いし、あたしもいろいろあって今夜は飲みたい気分なのよ……。
女は歯科医の妻だった。男が人妻の夫について知っていることはそれだけだった。たとえば夫がどんな顔をしているのか、年齢は何歳なのか、どこで歯科医を営んでいるのか、もしかしたら過去に彼が歯の治療を受けたことのある歯科医なのか。いずれにしてもそれらのことは別に知る必要もないと男は思っている。彼には、《女が、いつか、どこかで、自分と何らかの関係のあった人妻》であることが重要だったように思えた。そんな女であるからこそ男は彼女にストーリーを感じた。ストーリーを感じることができる女はなぜか彼を魅了する。女の内側から匂ってくる重ねられたエロスの記憶と飢えと倦怠は彼女の物語であり、その物語は彼にとって欲望の対象になる。男の前で女は自分が人妻であることに安心し、彼もまた彼女が人妻であることに安心した。なぜなら彼は、女が《すでに人妻である》というストーリーにおいてのみ関係を持つことができるのだから。