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パルティータ
【SM 官能小説】

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パルティータ-2

彼の不在は、底の見えない深い穴のように存在し続け、今でも夜の時間を重くしていると。ただ、スーツケースだけが《彼の存在》を暗示しているように彼女の体を真夜中の暗闇に侵してくる。もしかしたらほんとうは彼がこのケースの中にいるのかもしれないと思うと、たとえ空想であっても、女は男とのふたりだけの秘密の関係を意識できた。そしてその秘密を思い描くためにスーツケースが必要な気がした。
男が女に与えたスーツケースを介した関係は、おそらく彼にとって完璧なストーリーだったのだと思った。互いに相手のことを詳しく知る必要はなかった。彼にとっては、女がスーツケースを買ったときからすべてのストーリーが完璧に描かれていたのだ。
たまたまセールスで女のところを訪れた男だった。ただそれただけの事実なのに、死んだかもしれない彼の不在は、女の中に何を甦らせようとしているのか、彼女はうまく説明できなかった。
もしかしたら女は男に恋をしていたかもしれないとも思った。でも女にとって、恋以上に《その男が、彼女にとってどんな関係にある存在》だったのかわからない。ただ確かなことは、女が十七歳のときに白樺の林で出会い、どこかに監禁され、レイプされた男の記憶に曖昧に結びついているということだった。
いずれにしても女は彼を失った。そして彼が残したスーツケースだけが女の部屋に存在し続けている。それだけが五十歳になった女の目の前にある空(カラ)の現実だった………。


…………

どちら様でしょう。男が三回目にかけてやっとつながった電話の先から女の声が聞こえてきた。
「もしもし……さんでしょうか」と男は女の名前を言った。
男はシャワーを浴びたあと、何も身に付けないままソファに深々と腰を降ろし、受話器を手にしている。陰毛をすべて剃りあげた下腹部の地肌が青々としている。性器の微かな勃起の気配は明らかに女の声に感じている証拠だった。

「あなたは、まちがいなく……さんですよね」と男は女の名前を繰り返した。その名前は男の中にずっと潜み続けている女の名前だったが、誰なのかはわからない。その女のことを思い出そうとしても女が自分とどういう関係にあったのか一度として思い出せなかった。
 ええ………と、電話の先から、一瞬、戸惑ったような女の声が洩れた。
「あなたは、ぼくに電話をしてきたでしょう……今日はわたしの五十歳の誕生日だって」
「お宅様のお名前は何とおっしゃるのでしょうか」と女は言った。
「ぼくの名前はすでにあなたはご存じのはずです。なぜならぼくの名前に対してあなたは電話をかけてきたのですから」と男は言った。
 応答はなく、受話器の先から微かに女の呼吸の気配だけが伝わってくる。
「い、いえ……そちらに電話をかけた覚えはありませんが……間違い電話ではありませんか」と女は言った。
「だったらぼくはあなたの名前も誕生日も知らないはずです」と、男は電話の先の女に向かって甘く囁くように言った。
「まちがいなくあなたは、ぼくの声に聞き覚えがあるはずです」
咥えた煙草の煙を深く吸い込んでいるあいだも電話の先の女の沈黙は保たれたままだった。ようやく女の声がした。
「いえ……やっぱり、人違いです」女は気持ちを持ち直したような声で彼の言葉を冷静に否定した。
 彼は言った。「いや、あなたはぼくのことをよく知っているはずです。事実、あなたはこうしてぼくと会話をしながら、すでにぼくのことを思い出しているでしょう。ぼくがあなたの恋人だったときのことを」
 深い沈黙が時間を縫うように流れていく。電話の先の女の気配がペニスにまとわりつき、気がつくとペニスは禁欲的な疼きを感じていた。
聞こえていた珈琲のドリップの音が止ったとき、男は女の中に描かれてあるすべてのストーリーを知っていることを彼女に告げた。すると女は男の声を拒むように一方的に電話を切った。
 
男はソファから立ち上がり、カップを手にすると出来立ての珈琲を注ぎ、全裸のまま外のデッキに佇んだ。鬱蒼とした樹木に囲まれた別荘の近くを流れるせせらぎの音が時間をかき消していく。目がしだいに漆黒の暗闇になれていくと、電話の先の女の声が、《何かの記憶》として甦ってくる。
彼女は男が過去のどこかの時間に恋した女かもしれない。ただ、そのこと自体は彼にとって重要なことではなかった。問題は、男が女のストーリーなるものをほんとうは何も覚えていないということだった。
男は、自らの脳裏の奥に《彼女の存在の記憶》だけを求めていた。何も描かれていない記憶の色はとても鮮やかなのに、それがどうして鮮やかなのか彼にはわからなかった。男はもう一度女に電話をかけた。長い呼び出し音が続く。でも女が電話に出ることはなかった。


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