勃起制御-3
「だって、寒いんだもん」
えへへ、と笑う怡君さんの白い歯が眩しい。そういえば怡君さんの息臭って、意識して嗅いだことなかったな。
店の一番奥のボックス席に腰を下ろす。店内のBGMは、お客がいないか怡君さん目当ての台湾や中国のお客さんがいるときに流れる、北京語で歌われる台湾ポップスだ。妙に聞き覚えがあるメロディーだなと思ったらサザンの「真夏の果実」を北京語で歌ってるんだなこれ。
「さおりさんにLINEしといた。お兄ちゃん来てるから、喫茶店落ち着いたらおいで、って」
向かいの席に座った怡君さんとビールで乾杯する。暖房の効いた暖かい部屋で飲むキンキンに冷えたビールがうまい。
「さおりさんから聞いたけど、今日って上司の方と面談だったんでしょ?異動の希望、お話したの?」
「しました」
下地島への新路線就航の話を聞いて新しい環境で自分の経験値を発揮してみたいと思った、という言い方をした。まあ、たいていの会社員がそうだと思うけど、すでに家庭を持っているのでもなければプライベートの事情は異動の理由になりにくい。支店長の性格から「結婚したい人と離れたくない」ということ自体は理解してくれそうな気はしたけど、それが今年8歳の小学2年生です、となったらいろいろ話が変わってきそうだ。新しい職務や環境にチャレンジしたいという気持ちそのものは実際にあるわけだし。
「上司の方、なんて?」
「人事にはエスカレーションする、と言ってくれました。いまの支店の事情とか、下地島や宮古の体制を会社がどうする予定でいるのかはまだ本社から聞いていないから、希望が叶うかどうかはまだなんとも言えないけど、とも」
「まあ、そうだよね会社は。でも、私はお兄ちゃんにとってもいい機会なんだと思う。今……三年目だっけ?」
「そうです」
「大きい会社だったら後輩がいてもおかしくないもんね。お兄ちゃん、いい先輩になれると思う。やさしいもの」
「怡君さんに言われるとお世辞でもなんか嬉しいです」
「お世辞じゃないよ、さおりさんもいっつもそう言ってるし。オーナーさんも、綾菜ちゃんに親切にしてくれて本当にありがたい、って」
ビールのアルコールではない作用で頬が赤くなる。や、親切なんかじゃないです、下心もあったし、言えないようなこともしたし。
ドアベルがからん、と鳴って、寒いー、と言いながらさおりさんが入ってきた。
「喫茶店もお客さん少ないんだよねー。今月売上大丈夫かな」
手にしていたエコバッグを胸の高さに掲げる。
「お兄ちゃんお腹すいてるでしょ、今日は一口カツ」
「あ、いいなー。さおりさん私も食べたい」
「ふふ、じゃあ三人で食べちゃおうか」
テーブルに一口カツとトースターで軽く温めたロールパンが乗った皿が並び、さおりさんが怡君さんの隣に座る。
「いまお兄ちゃんのお話聞いていたんだけど、異動の希望、伝えたんだって」
ロールパンを小さくちぎりながら怡君さんが言った。支店長とのやりとりをさおりさんにも話す。
「希望が通るかどうかはまだわかりませんけど、ダメだ、とか、無理だ、とかって雰囲気ではなかったです」
さおりさんがやさしく微笑んだ。
「そう……ありがとうお兄ちゃん。大事な話してきてくれて」
「や、俺も、その、しのちゃんと絶対離れたくないんで」
「わあ。しのちゃんがうらやましいー。彼氏がこんなこと言ってくれるなんて」
怡君さんが、右手にロールパンを持ったまま左手で口元を覆って笑う。
「ほんと。しのは果報者だよ、あの子ちゃんとわかってるかなあ」
「や、そんな……」
ポジティブな言われ方に慣れていないから、ビアグラスと一口カツとの間で右手をうろうろさせてしまう。
「私も、お店のこと真剣に考えるわ。現実的にどういう流れにするのがいいか、オーナーさんと相談してみる」
「さおりさんなら大丈夫だよ、お兄ちゃんも一緒でしょ。私達もできることはなんでもするから。彼にも話したの、そしたらお兄ちゃんのことがなんか他人とは思えないみたいで、応援したい、って」
怡君さんが唇の両端を、きゅっ、と結ぶ。左の頬に小さくえくぼができる。
「いろんなこと、うまくいくといいな。お兄ちゃんも、怡君ちゃん達も、私としのも」
ビアグラスをテーブルに戻しながらさおりさんがそう言ってため息をつく。
「大丈夫ですよ、うまくいきます。明日はお客さんも戻ってきますよ晴れるから」
たいして上手くもない冗談に、さおりさんも怡君さんも笑ってくれた。かわいい顔の二人の女性が目の前で歯を見せて笑顔になる。息臭マニアならずとも気持ちが跳ねる光景だ。
「しのちゃんは宮古の話、なんて言っているんですか?」
「うん……実はね、しのにはまだそんなに深く話、してないんだ」
「え、そうだったんですか」