花屑(はなくず)-6
わたしが読みあげた雑誌の中の投稿文は、《ある彫刻家の観想》と題され、匿名で美術雑誌に掲載されたものだった。
「まだ、そんな古い雑誌が残っていたのか」と倉橋は何かを懐かしむように笑った。
「あなたがわたしに告げたかったことだと思っているわ。ただ、わたしは、あなたが造りたかった裸婦像にはなれなかったけど」と言ったわたしの言葉が、まるで海の漂流物のように倉橋の黒い瞳の中で漂ったような気がした。
「投稿された手記は、あの青年の彫像と裸婦像を完成させるためのわしの思い込みとも言えるものだ」と彼は言った。
「でも、あなたはこの手記をわたしに読ませる目的で書いたわ」
倉橋のしたたかさが彼の横顔を横切ったような気がした。
「覚えているかしら。わたしがあなたを車でアトリエまで送って行ったあの夜、意図したようにこの雑誌がわたしの車の中に置き忘れられていたことを」
わずかな沈黙がわたしと倉橋のあいだを冷ややかに縫っていく。
「そしてきみは、わしがあの青年の像と裸婦像を完成させるために自分が必要とされている女だということにも気がついた………」
「あら、それはとてもうれしかったことだわ。不感症の女を必要とする男は、不能の男だということね」
わたしは微かな皮肉を湛えた口元の笑みをゆるやかに彼に投げた。
倉橋はそんなわたしの言葉にも表情を崩すことなく言った。
「不能の男と不感症の女のあいだの性愛は、互いの隷属しかありえないと言うことだ。それも限りない純潔に充たされた隷属。それは精神と肉体に感じる不能と不感の苦痛を純粋な形としてとらえることから生まれる……」
お互いに気がついていた。わたしと倉橋の心と肉体に孕んでいる《共有された苦痛の病巣》に。
「あなたとわたしは、いつからか互いの苦痛そのものに性愛を求めていた。そのことを確かめるためにあなたはふたつの彫像をどうしても完成させたかったわ」とわたしは言った。
「わしは、ふたつの彫像がひとつの完成された作品となるために欠いているものが隷属だと感じていたが、その隷属なるものがいったい何なのかはわからなかった……」
わたしの記憶の中に暗い亀裂が見え隠れしていた。思い出せないものが幻影のように渦を巻き、耐えがたいくらいわたしの中の冷ややかに引き裂いていくようだった。
――― 私は観想の中に女の像を想い浮かべた。肉惑的ともいえるその女の体を欲しがらない男がいないような女を。悩ましすぎるほどの胸の隆起、しなやかに括れた腰の線、濃艶すぎるほどの太腿の付け根の漆黒の草むら、刃物で深く切り込んだような臀部の割れ筋、しなやかな脚の線。しかし、おおよそ男たちがいだくことができる肉の欲望を私が夢想の女にどうしていだくことができないのか。それは、まぎれもなく異性に対して不能である私に与えられた唯一の肉欲の欠落という性の苦痛そのものだった。
私は夢を見ていた。青年が私であったのか、私が彼自身であったのか、その錯覚は明らかに私が青年の肉体に同化している夢だった。彼は私が嫉妬するくらい美貌の男なのだ。それは無垢な心と完璧な肉体をもった男性であるべきだった。初々しい果実が瑞々しく色づくような青年の肉体に私は愛おしい悦びを得ることができると同時に、狂おしいほどの彼への嫉妬は、私を確実に性の欲情へと導いた。そして私は同時に夢想の女を描いた。私である青年の肉体が隷属できる女を。
全裸の青年は女の足元に跪いていた。女は、《彼が、私が》、跪くにふさわしい女だった。しなやかに伸び切った凛とした彼女の脚の線。エロスを感じさせる優雅すぎるほどの完璧な胴体。青年は、女の真っ白な太腿から伸びたふくらはぎに指を触れ、足首に唇を這わせ、女の臀(しり)に接吻する。それは彼と女のあいだに生まれる隷属という予感そのものだった。
女は残酷でなければならない。それは私が望んでいることだった。女は青年を痛めつけ、純潔を虐げ、彼を無理やり犯す。青年が女に鞭を打たれ、苦痛に晒される姿にこそ、彼は彼自身の肉体の意味を知ることができ、わたしは自分が失った肉欲の意味を取り戻すことができる。そして彼の肉体は私が求めるイデアになる。そのとき彼の彫像は完成されるのだ………。