役得と焼きそばと-4
琴美の前を歩いていてよかった。今度こそ赤面を抑えることはできなかったから。
「ねーよ。まあ、懐いてくれたらかわいいなとは思うけど、ロリコンとかそういうのじゃないし」
8歳の「こいびと」と準性的関係があるくせに、おまえはなにを言ってるんだ。
「ふーん。でもあんたさあ」
オフィスはほとんどが定時で帰っていて無人だ。留守番でひとり残っていて、俺と琴美が小学生を見送って戻ってくるのを窓越しに見た営業スタッフは、どうやらトイレを我慢していたらしく俺と遠目が合うと左手を上げて廊下へ駆け出していった。
説明資料のバインダーをデスクに置いて琴美が続ける。
「年下にはすっごい優しいよね。麻衣ちゃんへの言い方とか丁寧だし、さっきだって子供たちには、なんていうか、Eテレに出ているお兄さんみたいな感じで喋ってたじゃん。あたしには乱暴だけど」
「琴美にも優しくしてるつもりだけどなあ」
「優しい人があんなことするんだ」
「あんなことって?」
「あたしのおまんこ見てオナニー」
思わず営業スタッフが出ていったドアに視線が行く。セキュリティエリアだからIDカードをセンサーにかざさないとトイレから戻れないので、営業スタッフが戻ってきたならセンターへのタッチ音がするはずだ。ドアの向こうの廊下はしん、としている。トイレ、大きい方なのかもしれない。
「な、いや、なにを」
「ふふ、別にいいけどさ。酔ってたからあんまりあれだけどあたしからなんか仕向けたんでしょ。まあ、あそこまでしていいとは言わなかったと思うけどねー」
ふざけたような顔で睨む琴美の表情にあんまり含羞はない。あの夜のことに琴美が言及するのははじめてだけど、ここまであっけらかんとしているとは思わなかった。むしろ男のこっちが恥ずかしいくらいで忘れたふりをしていたくらいなのに。
「でもさ、あたしでオナニーするってことはさ、そういう部分は普通ってことなのかな。じゃあロリコンじゃないのか」
いや琴美、ロリコンって別に成人には性的興味がないとは限らないんだぜ、現に俺みたいなのがいるわけで。これはさすがに口にできないけれど。
センサー音がひとつ響いて、トイレに立っていた営業スタッフがオフィスに戻ってくる。それをきっかけに俺と琴美も帰り支度を始めた。
空港職員の友達と飲みに行く、と言う琴美と別れて、俺は一人で直通急行に乗った。明日はシフトの休みで明後日は八月に休日出勤した ―しのちゃんに一時的に会えなくなっていた頃に半ばヤケで休出した日― 代休を取っているので、久しぶりの二連休だ。そうさおりさんに告げると、もう一軒のお店、つまりお酒を出す方のお店に遊びに来ないかと誘われた。
「ご飯も出せるし、オーナーがね、ちょっとならお酒もサービスしていいって」
その言葉に釣られたわけじゃないけれど、居酒屋以外のお店で酒を飲むことがあんまりなかったので興味があったというのもあり、今日仕事が終わったら行きます、と約束していた。
直通急行は二十分ほどで着き、喫茶店とは反対側の西口から外に出る。百貨店がある東口と比べると、こっち側は建物も商店もやや少ない。昭和から存続していそうな商店街に入ってすぐ、町中華の隣にさおりさんが夜働いているお店があった。外見は、ごく一般的なバーに見える。
木でできた分厚いドアを恐る恐る開けると、店の左側にあるカウンターにいた女性がこっちを見て「いらっしゃいませ」と微笑んだ。チャイナドレスを着た女性を見るのはたぶん高校生以来だろう。あれは母方のじいちゃんばあちゃんの金婚式を中華街でお祝いしたときだったっけな。
「あ、あの、さおりさんは……」
「ああ、お兄さん、ね」
チャイナドレスの女性はにこっ、と笑った。ロイヤルブルーに鳳凰牡丹柄のドレスも相まってすごく大人っぽく見えたけれど、卵型の笑顔は案外幼くてかわいらしい女性だ。
「さおりさん、ちょっと今そこまで買い物に行っていて……こちら、お掛けください」
案内された、カウンターの一番奥のスツールに腰を下ろすと、ドレスの女性がカウンター越しにおしぼりを渡してくれる。ぎこちない手で受け取ると、目の前にコースターとミックスナッツの小皿がそっと置かれた。
「オーナーから、お兄さんが見えたらお酒サービスするように、って言われてます。だから遠慮なさらないでね。お飲み物、なにになさいます?」
「あ、はい……本当にいいんですか?」
ドレスの女性はまたにっこりと笑ってうなずいた。きゅっ、とルージュをひいた唇と白い歯のコントラストがきれいだ。笑顔になると緩やかな稜線を描く、ぱっちりとした二重の眼。明眸皓歯ってこういう顔のことを言うんだな。
お願いしたビールが太めのグラスに注がれてコースターの上に置かれる。妙に気取ったグラスじゃないのが俺の緊張感をちょっとやわらげてくれる。いただきます、そう言ってビールを飲む俺を、ドレスの女性が正面からにこにこと微笑みながら見ている。
「よかった、おいしそうに飲んでくれて」
グラスをコースターに戻した俺に、ドレスの女性が明るい声で言う。グラスの中のビールは三分の一くらいに減っている。無意識にぐびぐびと飲んでいたんだろう。まあ、まだ緊張が少し残っているのと九月末とはいえ外がまだ暑いっていうのが原因なんだけど、ビールはたしかにおいしかった。よく冷えていて、いかにも注ぎたてっていう感じの新鮮な泡が喉に心地いい。
「私、イーチュンといいます。よろしくね」
そういってドレスの女性がカウンターの内側から差し出した名刺には「怡君 Yi-Chung」と印字されている。
「台湾出身です」