妖国記-2
執事のベルガーとアルテリスのやり取りを見ていたテスティーノ伯爵が、真面目な顔をしていたが、こらえきれずに笑い出した。
「はははっ、彼女のことは、アルテリスさんと呼べばいい。なあ、ベルガー、彼女のことを私はとても美しいと思う」
「旦那様、同感です。とても美しい女性だと思います」
テスティーノ伯爵は、初対面の時から、獣人族のアルテリスに対して、平民階級として見下すような態度で接することがなかった。
アルテリスは、僧侶リーナと出会った時の事を思い出していた。辺境では、神聖教団の僧侶は身分の高い存在として村人たちから敬われていた。だから、獣人族の行商人を見下す態度を取ってもおかしくはない。しかし、僧侶リーナはそうしなかった。
貴族、それも伯爵の爵位の身分にあるテスティーノ伯爵のアルテリスに対する態度は、見下したものではないと感じた。
獣人娘のアルテリスは、この時ひとつの決断をした。
「伯爵様、ごちそうしてくれるのはありがたいけど、あたいの幌馬車に、旅の連れがいるんだ。あたいと一緒に、ごちそうになってもいいかい?」
この歴史書には残されていない獣人娘アルテリスの決断によって、テスティーノ伯爵は、どんな情勢であれ傍観すると考えて行動していた運命が変わった。
アルテリスはテスティーノ伯爵の目の前で、レナードにかぶせていた狼頭の仮面を外して見せた。狼頭の仮面をかぶせたままでは、レナードに飲食させることができなかった。
「伯爵様、あたいが見つけた時には、言葉も話せなくなって、自分の名前も忘れちまって、自分ひとりじゃ何にもできなくなっちまってたんだ。誰かこの人を治せそうな人を知らないか?」
アルテリスは食べ物をレナードの口元へ運んでやり、匙でこぼさないようにスープを飲ませてやっていた。
「アルテリス、君はずっとそうやって彼の世話をしてきたのか?」
「まあね。これでも、だいぶ良くなってきたほうだけど」
アルテリスと5人の亡霊たちは、表情も変わらず、ただひたすら呆けて無反応で動けなくなっていた状態だったレナードを治そうと、世話をし続けてきた。
テスティーノ伯爵は、ランベール王の戴冠式には王都へ呼ばれて、王の姿を拝謁していた。
(もしも、目の前にいる記憶を失っている青年がランベール王だとすると、王都にいるランベール王は何者なのだ?)
執事のベルガーは、ランベール王に謁見したことはない。なぜ、わざわざ精巧な狼頭の仮面を記憶を失った青年にかぶせて、アルテリスが旅をしているのか、意味がわからない。
「こんなひどい目に、この人を合わせた奴が探してたら、さすがにまずいと思ってね。それで、獣人族に見えるように、狼頭の仮面をかぶせて、旅を続けてきたんだよ」
「アルテリス、よく機転を利かせて、ここまで彼を連れて来てくれた。私も君に協力させてくれないか。彼を治療できそうな人物の心あたりなら、ひとりだけ知っている」
「伯爵様、それは本当かい?」
食事を終え、レナードに仮面をかぶせてやりながら、アルテリスはテスティーノ伯爵に言った。
「ベルガー、彼女たちを案内するから、しばらく留守にする。頼めるか?」
「旦那様、お任せ下さい。このベルガーが亡くなる前までには、伯爵領へお戻り下さい」
「ふむ。その様子だと、もう誰のところへ私が行くか、ベルガーには見当がついているようだな」
「旦那様にお仕えしたのは、私が15歳の頃ですから。私はもう、64歳でございますよ」
「そうだな。アルテリス、ベルガーは私が生まれた時から執事として仕えている者だ。秘密を誰かに漏らす心配はない」
「ベルガーさんは49年間、ずっと執事さんをしてるのか。すごいねぇ」
アルテリスたちは、もうルゥラの街に戻らずに出発まで、この邸宅に滞在しておくほうがいいと、テスティーノ伯爵に言われた。
「伯爵様、それはありがたい話だけど、いいのかい?」
「アルテリスが、嫌でなければだが」
「伯爵様、あたいは獣人族だけど、いいのかい?」
「あの、旦那様……お耳に入れておきたいことがございます」
執事のベルガーが小声でターレン王国の古くからの風習について、テスティーノ伯爵に説明した。
その風習とは、旅人が客人としてもてなしを受け滞在した時には、恩返しとして体の交わりを持つというものである。
若い頃のモルガン男爵が王都から出奔して旅暮らしができたのも、この古くからの風習のあるおかげだった。
この旅人の恩返しを断るということは、旅人には交わりを持ちたいと思えるほどの魅力がないと、愚弄するのと同じような、失礼な行為とされている。
「ベルツよ、そのようなしきたりがあるとは知らなかったぞ」
「宿屋が普及して、旅人を家で迎えることが、めっきり減りましたからな」
テスティーノ伯爵は、カルヴィーノの母親であるマリアナが亡くなってからは、誰とも親密に交わりを持つことなく今まで過ごしてきた。
ひとり身の寂しさに慣れ、すっかり落ち着いた頃になってから、息子の年齢と大差ない若い女性のアルテリスと交わりを持つことになるとは、テスティーノ伯爵には思いがけないことであった。
執事のベルガーは、この機会に交わりの悦びをテスティーノ伯爵には思い出してもらえたらと考えていた。だから、旅人の美女を邸宅へ招く提案をした。
「伯爵様は、獣人族のあたいじゃ、不満なのかい?」
アルテリスの端麗な顔立ちや、真っ直ぐ見つめてくる翠眼だけでなく、勝ち気そうな口調や笑顔にも、テスティーノ伯爵は魅力を感じていた。
また、献身的に世話をしていた様子にも好印象を抱いていた。
(ああ、懐かしいな、こんな気持ちは。だが、彼女は本当にいいのだろうか?)
「伯爵様、あたいは、本当に嫌な相手とは交尾したくないから、恩返しなんてしないけどね。ねぇ、泊めてもらうのに、あたいはいくら払えばいいの?」