算数の宿題-4
「お兄ちゃんに、しゅくだい、手伝ってほしいな」
へ?
しのちゃんは俺から離した左手で、足元のランドセルのかぶせを勢いよく開いた。ランドセルの上の通学帽がぽとん、と床に落ちる。
「あのね、今日、宿題がでたんだけど、算数の問題ばっかりなんだ。あたし苦手だから、お兄ちゃんとこに行ったら教えてもらおうと思って」
ランドセルの中からドリル帳を取り出し、にこっと笑いながら俺に表紙を見せた。「2ねんせいのドリル 算数」と青い字で書かれたその表紙を見る俺の表情はたぶん固まっている。
「先生、月曜までって言ってた」
しのちゃんはベッドからぴょん、と立ち上がってドリルとペットボトルをパソコンデスクに置き、それからランドセルの脇にしゃがみこんでペンケースと算数の教科書を出した。
「あ、そう……」
ぼそっと呟く俺の声はあまりにも小さすぎて、しのちゃんの耳にはたぶん届いていない。俺の一発バスドラが入った鼓動は、ハイハットの穏やかなリズムにすっかり移行している。
「お兄ちゃん、どこで宿題する?」
しのちゃん的には俺が宿題を手伝う前提だ。聞こえないようにため息をついた俺は、雑誌や文庫本を突っ込んであるカラーボックスをベッドの反対側から移動させてゲーミングチェアの横に置いた。一人暮らしで食事はパソコンデスクで摂っているから、ダイニングテーブルなんてものは持っていない。
ゲーミングチェアの高さを調整してしのちゃんを座らせ、デスク上にドリルやペンケースを並べる。ここも掃除しておいてよかったな。
「しのちゃん、お菓子は……食べても大丈夫?ママに怒られちゃうかな」
ショッピングモールの買い物袋を手にして俺は言った。がさがさ、という、ビニールがこすれる音にしのちゃんの目が輝く。
「わぁー、お菓子がいっぱいあるー。うん、食べすぎなければ、だいじょうぶだよ!」
まぁ、子供に聞けばそう答えるわな。俺はとりあえず、水色の袋に入ったグミとミルクショコラポッキーを天板の上に置いた。速攻でしのちゃんの手が伸び、ミルクショコラポッキーの小袋を開く。カラーボックスの上に腰掛けて、家庭教師さながらにドリルを開く俺の横で、ぽりぽり、と、しのちゃんがご満悦でポッキーをかじる音がする。あ、俺もアイスコーヒー飲むか。さっきのバスドラで完璧に喉乾いたわ。
ブラックのままのアイスコーヒーをすすりながらドリルのページをめくる。いくら学生時代勉強ができなかった俺とはいえ、小2の算数くらいは解ける。だから俺が代行しちゃえばしのちゃんもドリルで満点を取れるし話が早いんだろうけど、それじゃ宿題の意味がないような気がするし、そもそもしのちゃんの学力を俺が把握しきっていないから、算数ドリルで満点を取るのが自然なのか不自然なのかもわからない。
「しのちゃん、どのへんが苦手なのかな」
ポッキーを口に刺したままのしのちゃんが俺の顔を見る。ポッキーを挟んでいる、ちょっと尖った唇。俺の質問に答えようと考えをまとめているかのように動くしのちゃんの黒目。くう、かわいいぜ。
「うーん……いちばん苦手なのは、掛け算かなぁ」
「掛け算か。九九は覚えた?」
「んー、途中まで、かな。えへへ、へへ」
気まずそうに笑うしのちゃんのチョコレートまみれの唇を舐め回してきれいにしてあげたい、いや待てたまには真面目にものを考えろ俺。
「九九が苦手かぁ、なんの段までは覚えてるの?」
「五の段までは大丈夫だと思う。六の段はときどき間違える。七の段は、たぶんむり」
「六の段言ってみてごらん」
しのちゃんはQooをひとくち飲むと、ゲーミングチェアを俺の方にくる、と向けてゆっくり暗唱しはじめた。
「えーと、ろくいちがいち、ろくにじゅうに、ろくさんじゅう……はち?、ろくしにじゅうに、ろくごさんじゅう、ろくろくさんじゅうろく、ろくしち……えっと、えーと……」
うつむいてしまった。そのしのちゃんの頭の、ほんのわずかに白い地肌が見えている分け目のあたりを右手で撫でる。
「大丈夫大丈夫、ちなみに7✕6,しちろくはわかる?」
「しちろく……しじゅうに?」
「おお、しのちゃんすごいじゃん、七の段覚えてる」
うつむいていた顔を上げて、まだちょっとポッキーが残る唇を開いてうれしそうに笑うしのちゃんを、ぎゅうっと抱きしめたくなるのをこらえる。
「ろくしち、は、しちろくの反対の言い方だから、そうすると答えは……」
「しじゅうに?え、ほんと?」
「ほんとだよー」
俺はプリンタのトレイから引っ張り出したA4の普通紙に、サインペンで「6✕7」「7✕6」と大きく書いた。
「ね、これをそれぞれ逆さにしても、同じことになるでしょ」
「あー、ほんとだー。じゃあ、もし、ろくしち、がわからなかったら、しちろくのことを思い出したらいいの?」
「そういうこと。ちなみに4✕6,しろく、は?」
「しろくにじゅうし」
「ろくし、は?」
「えーと……にじゅうに……じゃない、にじゅうし!」
「そう、すごいしのちゃん」
俺はゲーミングチェアの中のしのちゃんを抱き上げて膝の上に下ろし、そのまましのちゃんの身体をぎゅうっと抱きしめた。にへー、と笑うしのちゃんが、俺の頬に自分の頬を押し付けてくる。かすかに汗の匂いが残るしのちゃんの体臭とチョコレートの甘い香りが混じった匂いが俺の鼻腔をくすぐる。