智司(三.)-1
新たな異変を感じ取ったのはそれからまた数日経ってからだった。
学校から帰宅し、リビングのとびらを開けた瞬間、むわっとした何とも言えないニオイが鼻先をかすめたのだ。酸っぱいような、生臭いような、表現しがたいそのニオイは、たしかにリビングの部屋の中から漂ってきていた。
しばらくすると母が二階から洗濯物を持ってリビングにおりてきた。そして換気のために裏庭側の引き戸を開けると、吹き込む風と共にそのニオイも消えてしまった。
その日はめずらしく姉も早く帰宅してきた。暇を持てあましていた姉がテレビゲームをしようとさそってきたので、智司もつきあうことにした。智司と明日香はもともと姉弟仲が良いほうである。
「このゲーム、私が出て行ったらあんたにあげるよ」
テレビゲームは姉がバイトで稼いだお金で買ったものだった。
「え、この家出て行くの?」
「そ、高校卒業したらね。だいぶ前から言ってたじゃない」
たしかに姉は二人きりで話をするとき、よくそのことを話題に出していた。だからかどうかはわからないが、智司はあまり驚いた顔をしなかった。
「もう許可はもらったの? 父さんとか、母さんとか」
「知らないわよ、あんな女」
姉が母に対してこんなにトゲのある言葉を発したのは始めてだった。それに母のことを『あんな女』と言ったその言葉がいつまでも耳に残り、長く尾を引くように智司をまごつかせた。
それから五日後、部活が終わって帰宅すると、家の中は真っ暗で人の気配を感じなかった。
母はどうやらまだパートの仕事から帰っていないようだった。
三年ほど前、少しでも家計の足しになるようにと、母は近場の書店でパートの仕事をするようになっていた。
あまり大きな書店ではなかったが、ひさしぶりの労働に、母がにわかに活気づいたようになったのが印象的だった。
週に三日か四日、平日の午前十時から午後四時まではたらいていた。
たまに繁忙期などで遅く帰ってくることもあったが、それでも夕飯の支度には間に合うようには帰宅していた。
テーブルの上には作り置きの食べ物もなかったため、しかたなく智司はソファに寝そべりテレビの電源をつけると、ダラダラとスマートフォンをいじったりしていた。
――ふと時計を見ると、午後七時を過ぎている。さすがに少し心配になってきたそのとき、スマートフォンに着信があり、母からの電話だった。
やはり繁忙期で忙しく、なかなか帰れないとのこと。夕飯には間に合わないので、冷蔵庫の中に昨日のおかずが残っているから、それをレンジで温めて食べてほしい、と母は言った。
智司はため息をつきながら冷蔵庫を開けると、昨日つくったと思われるオムレツを取り出し、レンジで温め一人で食べた。
それから待てども母は帰ってこない。午後九時をまわったとき、智司の頭の中ではある不安と疑念がうず巻くようになっていた。
もしかして、母がこの家にべつの男をつれこんでいる?
考えたくもないことだったが、最近の奇妙なできごとがぐるぐると頭の中でかき混ぜられ、もうその考えから抜け出せなくなっていた。
風呂場で見かけた避妊具、リビングで嗅いだあのニオイ、母に対し冷淡な姉の態度――それらすべてが、符合のようにぴたりと当てはまるような気がしたのである。