キス-1
へ?しのちゃん、え、いや、なんで。
ドアスコープに右目を当てたまま固まった俺は、首を傾げながら右へ向かって歩き出そうとするしのちゃんの姿に気づいて慌てて玄関ドアを開けた。もう身体がほとんど右の階段室に向いていたしのちゃんが開いたドアに気づいて振り向き、俺と目が合ってくしゃっ、と笑う。
「よかったー、やっぱりここだったんだお兄ちゃんのおうち。もし違ったらどこだろうって……」
「あ、あの、とりあえず中に入って、ね」
俺がささやくような声で言うと、ちょっと怪訝な顔をしたしのちゃんは、すぐにまた笑顔になるとスキップを踏むようにしてドアから玄関に入った。比較的新しいアパートだから音がダダ漏れすることはないだろうけど、土曜日の昼過ぎは住人が在宅している確率が普段より高い。あらぬ誤解―でもないんだけれど―を受けないようにはしたい。
サーモンピンクのスニーカーを玄関で脱いだしのちゃんはぱたぱたと室内へ入っていく。玄関にカギをかけ、しのちゃんが脱いだスニーカーを揃え―匂いを嗅ぎたい誘惑に一瞬かられたけれどよく考えたらそんな場合じゃない―、しのちゃんを追いかけて部屋に戻った。
「あっつー、今日も暑いよー」
振り向いたしのちゃんの顔は汗でびっしょり濡れている。
「あのさ、しのちゅわん……」
聞きたいことや言いたいことがまとまらない。ついでに舌の動きもまとまらない。
「ふへ、お兄ちゃん変な声出してる」
しのちゃんがベッドにちょこんと腰掛ける。
「ええと……あ、よくここがわかったね」
聞くべきことの順番が違うような気がするが、ちょっとは頭を落ち着かせたい。
「うん、こないだ歩道橋のとこで、あのマンションの隣、って教えてもらったでしょ。だから今日は、いっかい歩道橋まで行って、それからマンションのほうに歩いたんだ。マンションの隣りにあるアパートっぽいのってここだけだからすぐわかったよ」
確かに、マンションの周囲はほとんどが戸建てで、集合住宅は俺が住んでいるアパートくらいだ。
「下に着いたら、郵便いれるとこ見てお兄ちゃんの名前探したの。そしたらあったから、どのおうちかすぐわかった」
得意げにちょっと膨らませた鼻の頭には、まだ汗が残っている。俺は衣装ケースのいちばん上の引き出しからトリトンブルーのハンドタオルを出して、しのちゃんの顔の汗を拭いた。ハンドタオル越しとはいえしのちゃんの鼻や唇に直に触れるのは初めてだし、タオルの繊維にしのちゃんの汗や微量の唾液が染み込んでくるのは普段なら興奮するタイミングだけど、さすがに今はそういう状況ではない。
「ああ、まあ、道に迷ったりしなくてよかった……」
「ふへへ」
しのちゃんが1DKの部屋を見渡す。
「お兄ちゃん、おうちきれいにしてるんだ……あ、あたしのパンツあるー」
パソコンデスクの脇にぶら下げた巾着袋を指さして、しのちゃんが照れたように笑う。かわいい。たまらなくかわいい。
けど。俺はしのちゃんの前の床に腰を下ろした。目線の正面にしのちゃんのひざ小僧が見え、そのわずかに開いた隙間からスカートの中が覗いている。いつもの俺なら下着の色をチェックしようと目を凝らすところだが、やっぱり今の俺にそんな心理的余裕はない。
おとといの夕方しのちゃんにああいうふうに言ったのは、もちろん俺としのちゃんの関係がいろいろなところに露呈するリスクを生みたくなかったというのもあるけれど、しのちゃんには一定以上の警戒心を持っていてほしいと思ったことが大きかった。俺が言えた義理じゃないけれど、世の中にはどんな危険があるかわからないし、俺との馴れ初めにしてもしのちゃんのちょっと人懐っこすぎる性格のおかげで繋がったようなものなので、同じような距離感で他の、特に男には接してほしくなかった。たぶんヤキモチもあるんだろう。
「……でもね、しのちゃん」