3丁目の深夜-1
桜井秀行(67歳)の視点
ある朝、コーヒーを飲んでくつろいでいると、ドアチャイムが鳴った。
インターホンで応答する。
「どちら様?」
「おはよう御座います。向かいの水川です。」
声の主は我が家の向かいに住む、水川という家のご主人だった。年齢は40前くらい、未だ若々しく好青年の雰囲気を残す、なかなかのいい男だ。
「ああ、どうも。おはようございます。ご用件は?」
「はい、今夜……。」
彼はその先を口にしなかったが、言いたいことはすぐに分かった。普段からの近所付き合いで、信頼関係を築いているからこその阿吽の呼吸だ。
「ああ、はいはい、分かりました。」
「いつも、すみません。よろしくお願いします。」
礼儀正しい男は、爽やかな風を残して去って行った。
私は隣の部屋にいる妻に声をかけた。
「母さん。」
「はい、なんでしょう?」
「水川さん、今夜だそうだ。」
「そうですか……分かりました。」
妻は興味がない様子で、特に表情を変えることもなく頷くと、そのまま部屋に戻って行った。
私は電話機の前に行き、短縮ダイヤルに登録されている番号を呼び出す。
2回のコール音だけで繋がった。
「川村です。」
「もしもし、桜井ですが。」
「ああ、桜井さん。どうされました?」
「いつもの件です。今夜。」
「ああー、そうですか。分かりました。」
「よろしくお願いしますよ。」
「ええ、勿論。どうします?少し早めに出しておきますか?」
「まあ、いつもの感じで良いですよ。早すぎてもアレだから。」
「了解です。」
受話器を置いて、違う番号を呼び出し、同じ用件を伝える。
「はい、箕島です。」
「もしもし、桜井ですが……………………………。」
「……………了解しました。」
最後に最寄りの交番に電話をかける。
「はい、○○交番です。」
「3丁目の桜井と申しますが、永島係長はいらっしいますか。」
「桜井課長!おはようございます。係長は今道案内をしていますので、後ほど……あっ、終わったようです。代わりますね。」
引退した私を、未だに課長と呼んでくれる若い巡査の心遣いが嬉しかった。
「お待たせしてすみません。永島です。」
「構わないよ。職務を優先して下さい。」
永島は警察官時代の部下で、私をよく慕ってくれていた。私も彼を可愛がり、一緒に呑みに行っては会社の愚痴を言い合うのが日常だった。今はこの交番のハコ長を務めている。
「はい。それで…ご用件はなんでしょう。」
「2丁目の自然公園に夜間、不良がたむろしているようなんだが。」
「そうですか。では今夜、そちらの方の警邏を強化したいと思います。情報提供ありがとうございます。交代の連中にしっかり引き継ぎしておきますよ。」
「ああ、お願いします。ありがとう。」
「いえいえ、こちらこそ!ただ、そうすると3丁目の方は手薄に……」
「こちらは大丈夫でしょう。もし不安なら、私がパトロールするよ。」
「いや、課長、そこまでは。では今夜は3丁目は無しということで…。」
「うん。ところで君、今夜ウチでどうだい?いつもの。」
「勿論!喜んで伺います!」
彼の喜ぶ顔が想像出来て、私も頬が緩むのを感じていた。
「では後ほど。」
時刻は23時51分。
定刻までは、あと9分。
永島が言った。
「川村さんと、箕島さんはもう準備が完了しているそうです。」
「そうか。」
妻が自室から顔を出す。
「お父さん、程々にして下さいよ。」
「…わかってる。」
「永島さんも。」
「すみません、奥さん。もう出ますので、どうぞお休みになって下さい。」
妻はとがめるような目で我々を一瞥したあと、ふっと溜め息を吐いて、また部屋に戻って行った。
我が家を含むこの3丁目の一角には、古い戸建の家が数件と、昔は市役所員の独身寮だった古い5階建てのマンションがある。
このマンションは、今は民間に譲渡して近くの工場の工員の男子寮として使われていた。
この一角の西端にある川村邸と、東端にある箕島邸が一本の生活道路を挟むようにして、これらの建物が建っていた。
今、この道路は川村・箕島の両氏によって通行止めのバリケードが成されて、封鎖されている。
警察官による警邏も、今夜は無い。
23時54分。
そろそろだ。
妻はもう自室に籠もって出てこようとしない。
「永島くん。」
私はあえて軽い声を出して彼を呼んだ。
「はい。」
かつての部下は目を輝かせて答える。
「久しぶりですよね、今回。」
「そうだな、前回から2週間くらいか。」
「ほほう、それぐらいですか。」
「さあ、行こう。そこの窓を開けてくれ。」
「了解しました!」
リヴィングの掃出し窓を出て、ささやかな我が家の庭へ降りる。
隣の家との間はコンクリートブロックで出来た背の低い万年塀で仕切られている。道路に面した側には、我が身と同じく草臥れた生け垣がある。そのやせ衰えた植木の枝葉は隙間だらけで、もはや目隠しの役目を果たしていなかった。
夜の闇が無ければ、庭に立つ我々の姿は、外の道路からかなりはっきりと見ることができるはずだ。そして、そのまた逆も然り。こちら側から前面の道路を見渡すことができる。
私は永島と2人、申し訳程度に伸びる細木の間に身を置いて、道路脇に等間隔に配置された街灯を見上げていた。