薄氷-1
「もう三年……いや、三年という歳月に意味をもたせる必要もないほど、あんたは離婚した妻について忘れ去っているかもしれませんね。それともあらたに手に入れた女を楽しんでいるのでしょうか」
男は皮肉な笑みを浮かべながら言った。
冬の日の夕暮れ時、スカイビルの一階にあるいつものファミレスは客で混みあい、あなたと男は、人目を避けるように隅の席に向かい合って座っていた。
角刈りの頭髪に白いものが混じった男は六十歳くらいだろうか、額が広く、顎が尖った顔に薄く緑色に透けたサングラスをかけていた。男は灰色のスーツに黒いポロシャツを着て、背は高く、がっしりとした広い肩幅とシャツの胸元のボタンがはち切れそうな胸郭は、あなたが嫉妬をするほどの強靭な筋肉を想わせた。
不思議なことに、男の顔は石膏色だった。なぜかあなたには、その男の顔の色が見えなかった。まわりの色彩の中で唯一、男の顔だけが無彩色だった。そして彼が別れた妻とつき合っている男だという意識だけがあなたの中にあった。
「妻は………」と、あなたが別れた妻の名前を言いかけたとき、あなたは自分の妻の名前が思い出せなかった。そのことに気がつくことなく男は言った。
「実は、K…子と楽しませてもらっていましてね」
K…子、それが妻の名前らしい。今年、四十七歳になるあなたの五歳年下の妻とは三年前に別れた。妻のことを忘れたわけではなかった。ただ、妻の名前がどうしても思い出せなかった。
「妻がきみとつき合っていることは知っている」
「それはどうも。そういえば、あの夜、K…子と一緒にいるところをあんたに見られましたね」
男は苦笑いを浮かべながらカップの縁に厚い唇を淫靡に這わせた。それはおそらく妻の肌を隅々まで愛撫した唇に違いないとあなたは思った。
偶然だった、あの夜、街のネオン街であなたがふたりを見かけたのは。男は、まるで恋人同士のように妻に寄り添い、彼女の腰に手をまわしていた。あなたは《おそらく、その女が妻である》と思った。妻の流れるような艶やかな髪、背中の翳り、腰の輪郭………ただ、あなたの記憶の中の不確かな妻の容姿がどんな懐かしさもあなたにもたらすことがなかったことが不思議だった。
《妻であって、妻らしき女》はあなたを振り返ることはなかったが、男はあなたの方に一瞬、顔を向けて笑ったような気がした。サングラスの奥に淫蕩で狡猾そうな狐のような眼がきらめき、ほんの数秒間、あなたは男と目が合った。そして男は彼女の肩を抱き寄せ、毒々しいネオンの光に包まれた雑沓の中に消えていった。