薄氷-4
朝、目が覚めたときあなたは射精をしていたことに気がついた。夢精だった。下着の中にべっとりと滲み入った白濁液は、甘酸っぱい匂いを苛立たしく漂わせていた。
妻があの男に抱かれている夢に対して、あいまいに凝固した肉体の中心の殻が破れ、萎えた肉塊が粉々に砕かれているような気がした。精液を放出した体の中が著しく疲労し、流れる血流は気だるく希薄だった。精液を搾り取られた肉体がカラカラに渇き、水分がどんどん涸渇していく。
妻と共有したものは、数多くあったかもしれない(それは精神的にも、肉体的にも)が、今は何も残ってはいないと《感じられる》ことが不思議だった。
妻との曖昧な性愛、倦怠、そして多くの無為の感情。ただ、夢という妄想だけが妻の存在を自分に問いかける《きわめて性的な高揚》として静かに波紋をひろげ、あなたの肉体の深みから研ぎ澄まされたようにその形をはっきりと息吹かせていた。それは別れた妻に対して今もまだ燻りつづける、とても意味のある情欲のように思えた。
一か月前、出会った女は、あなたにとって最初はどんな存在でもなかった。ただ三年前、妻と最後の言葉を交わしたスカイビルにあるファミレスで、女はあなたのすぐ隣の席に座り、妻と同じ香水の匂いを漂わせ、妻と同じものを注文した。
その女が、妻がいた隣の席にいることがなぜかとても不思議に思えた。あなたは別れた妻の誕生日に隣の席に座った女を抱きたいと思った。
まだ二十歳後半くらいの年齢に見えるその若い女は、場違いのコスプレのキャラクターのような衣服を身につけ、視点の定まらない子猫のようなあどけない表情であなたの視線を受けとめた。
コートを脱いで剥き出しになった肩の輪郭はなだらかに丸みを描き、肌理の細かい白すぎる肌からは、若い女特有の瑞々しい光沢と匂いが今にもこぼれ落ちそうだった。
どちらかと言うと妻と同じくらいの背の高さであり、妻と年齢は違うにしても、ほっそりとした体型に、ふっくらとした輪郭のいい胸は妻を思わせた。ただ、まるで焼き上げたばかりのパンのように香ばしいあどけなさを残した顔は、妻とは何もかも違っていた。年齢の違いと顔を除けば、体つきも、容姿の輪郭も、脚の形もどこか妻と似ているような気がした。いや、ただそう思っただけかもしれない。なぜなら、あなたには妻の容姿について確かな記憶はないのだから。
三年前、冬が終わろうとしていたあの日は、水たまりに薄氷が張るような寒い朝だったことを憶えている。あの日、早朝のファミレスに客は疎らだった。あなたは別居していた妻と久しぶりに会った。妻はあなたの存在を無視したようにカフェオーレを口にしていた。ふたりのあいだに交わす言葉が見つからなかった。しばらく沈黙が続いたあと、妻はあなたがまったく予期しない言葉を吐いた。
好きな人ができたわ……渇いた暗い声だった。倦怠と、物憂さと、そしてあなたに対する冷淡さと無関心が混じりあった声だった。
妻はあなたに一言だけ告げるとあなたの前から立ち去った。それが最後の別れだった。おそらく妻は誰ともつき合ってはいない、好きな男ができたというのはあなたと別れるための口実だと思い続けていた。なぜならあなたは妻に男の気配など一度も感じたことはなく、別れる理由がどこにも思いあたらなかった。
そもそもあなたは《なぜ彼女が自分の妻である》のかわからなかった。いつ、どうして結婚したのか……あなたの記憶にはなかった。気がついたら《夫婦であるという事実》だけが存在し、おそらく最初から存在しない架空の夫婦の関係を演じてきた。それはあまりに曖昧で、作為的で、しいて言えば無関心と表裏一体だった。それでもあなたと妻は《あらかじめ決められたような夫婦生活をおくり、曖昧な性愛》を求めた。
五年間という結婚生活にどんな波風も立つことはなかった。あなたと妻は、ふたりのあいだに過ぎ行く時間に、どんな記憶も感情も持ち込むことがなかった。記憶は封じられた記憶であり、秘密は秘密ではなく夫婦にとって最初から存在しないものだった。そして妻との性愛は、いつまでもたっても、どこまで尽き果てても、希薄だった。
別れた後、妻とふたたび会うことはなかった。だから男からの電話はあまりに突然だった。それは男が別れた妻とつき合っていることをわざわざあなたに伝えるためのものだった。いや、もしかしたら妻が男に電話をかけるように言ったのかもしれない……《男のものになった自分のこと》をあなたに伝えるために。