薄氷-15
あの女と会わなくなって久しい。あなたは、彼女の名前も、携帯番号も知らないことに初めて気がついた。もちろん彼女がどこに住んでいるのか、何をしているのかさえ知らない。
部屋の窓から灰色の空が見える。いつのまにか外は冬の驟雨に包まれている。眼を覚ましたあなたのベッドにあの女が寄り添っているような気配がした。でも、あの女かどうかは定かでない。もしかしたら、もともとそういう女はいなかったかもしれない。あなたはベッドの中の女の顔をどうしても思い出せない。なぜなら彼女は《あなたの意識の中だけにある女》なのだから。
あなたはふたたび眼を閉じる。淡い光を溜めた薄氷のような記憶に女が映っている。認識できたことは、目の前の女が《あなたの中にある妻の不確かな記憶に同化している》ということ……そして自分が知らないあいだに失った女であるという喪失の記憶だった。
日曜日の深夜、いつものファミレスの常連客が疎らになる。静かなジャズピアノが背後に流れている。あなたは来ることのないあの女を待ち続けていた。そのとき不意にあなたの席の近くで人の気配がした。いつも彼女が座っていた席に現われたのは彼女ではなくてあの男だった。
「K…子がどうなったのかって。今さらあんたがそんなことを知ってどうなるというわけでもないでしょう。もう彼女はあんたの妻でも何でもない女ですから」
男は、いつものように緑色のサングラスをかけたまま、やってきたウエイトレスにエスプレッソを注文し、胸の内側のポケットからおもむろに煙草を取り出しながらぶっきら棒に言った。
「実は、K…子を売ることにしましてね」
男が突然吐いた言葉の意味があなたは理解できなかった。妻を売る……いったい、どういうことなんだ、あなたは咽喉を搾りながら胸の中で自問を繰り返す。
「今夜は、あんたにそのことをお知らせしたくてここにやってきたのです」
男は陰湿な笑みを浮かべて、ぽつりとつぶやいた。
「予定どおりK…子は、今夜、船で運ばれ、競(せ)りにかけられます」
男は人身売買する女たちを手配するブローカーだった。その競りは年に一度、ここの近くの港から遠く離れた無人島で密かに行われ、競り落とされた女たちは異国に送られるらしい。妻はその競りにかけられるという。
珈琲カップを持つあなたの指がぶるぶると小刻みに震えた。信じられなかった。まるで映画の中のようなことが現実に行われていることが。あなたと男のあいだに沈黙がゆるく拡がる。
「あなたが信じようと、信じまいと勝手ですが。K…子は、きっといい値段で売れると思いますよ」と男は冷ややかに笑った。
あなたは返す言葉がなかった。妻が競りで売られるという事実が実感として湧いてこなかった。
男は言った。「実をいうと、彼女自身が自らを否定することで自分を取り戻し、まったく別の女として見知らぬ異国に売られていくことを望んだ………あたしの永遠の女としてね。そのためにあたしが女の肉体に刻む印をあなたもご存じでしょう」
「妻は、もう別人だと言うのか」
「そもそも、あんたはK…子がどんな女なのか知らない、彼女の心も肉体も。そうじゃありませんか。そこにあんたとK…子の記憶なんて微塵もなかったわけですから。ですからK…子があんたの妻として《本物であるのか、別人であるのか、区別をつけること》ができるわけがない」と男は笑った。
無彩色の、無音の映像として妻の面影があなたの脳裏でゆらぎ、喘ぎ、のたうち、画面の中に小さくなって消えていく。