自慰-1
恋人も、友人も失い、サークルもフェードアウトし、アルバイトも辞めた。勉強も遅れ授業についていけない。単位をたくさん落とし進級すら危ぶまれる状況である。
Dはゆきが別れを告げたときこそ深刻な様子で謝ってもくれたが、キャンパスでたまに遠目に見る限り、その後も変わらず楽しそうに過ごしている。少しくらい落ち込んでいる姿を見たかったと思ってしまう狭量な自分が嫌で、なるべく顔を合わせないよう、こそこそ逃げ回るように行動する。自分から振っておいて、なんと惨めなことか。
楓とEも付き合いは継続している様子で、今は二人とも就職に向け、精力的に動き回っている。すれ違うと笑顔で声をかけてくれるし、立ち話で近況報告し合うこともある。今や二人は、キャンパスでゆきに普通に接してくれるほとんど唯一の知り合いである。しかしゆきとしてはDと同じくなるべく接触を避けたい。そう思っているのが態度に出てしまうのか、楓が笑顔の奥で心配そうにゆきを見つめてくる、その視線が痛かった。
「今度二人でご飯食べに行こう?」という楓からのお誘いメールも、適当な理由をつけて断ってしまった。日時指定があるわけでもなし、その気ならいつでも受けられる誘いを断った時点で、それはゆきからの絶縁状に等しい。返信した瞬間に、涙がこぼれてきた。
四人の中で自分の生活だけが暗転してしまった。皆があの異常な行為をあくまで「青春の一ページ」として余暇的に楽しんでいた中、ゆきだけは、心身ともにどっぷり嵌ってしまっていたのだ。渦中にいるときは気が付かなかった。自分だけが未熟な子供だった。恥ずかしいし情けない。
*
クリスマスイブも一人ぼっちだった。
ショートケーキを買おうと近所のコンビニに入店してはじめて、今日が特別な日であることに気がついた。これから聖なる夜を過ごすのであろう幸せそうなカップルたち。スイーツ売り場も赤と緑のクリスマス仕様。ありふれたショートケーキなど見当たらないし、あったとしても若い女性がそれ一つ持ってレジに並ぶのは抵抗がある。結局何も買わず逃げるように店を出た。
翌朝、空腹で目が覚めた。カップルたちが夢の中にいるうちにと再びコンビニへ向かう。閑散とした店内にきらびやかな装飾と陽気なBGMが、祭りのあとの侘しさを引き立てる。
軒並み完売のスイーツコーナーを横目に通り過ぎようとしてふと足を止める。棚の一番端の一番奥に、ショートケーキが一つ、ぽつんと残っていた。少しかがまないと見にくい場所で、しかも横倒しになっている。誰からも一顧だにされぬ売れ残り。まるで今の自分のようだ。ゆきは笑ってしまった。
手にとって見ると、凹んだケースに生クリームがべっとり付着し形が崩れている。イチゴはこぼれ落ち、おまけに賞味期限が四時間前に切れている。すべてのオペレーションがシステマチックに管理されているコンビニでは実に珍しい。レジに持っていく。眠そうな店員もさすがに一瞬ぎょっとして手を止めるが、面倒はごめんとばかりにすぐ気だるそうな雰囲気に戻り、気づかぬふりを貫いてレジを通した。
帰宅して食す。見た目は多少みっともなくても、まだどこも傷んでいない。ほら、まだ全然おいしく食べられる。よかった。少しくらい手遅れでも、大丈夫なんだ。ああ、よかった。ぼろぼろでも傷だらけでも、問題ない。でも少ししょっぱいな。おかしいな。目からぽろぽろ涙がこぼれている。最近泣いてばかりだなと、ゆきはまた可笑しくなった。
わずか数ヶ月前、ゆきの毎日は光り輝いていた。憧れのキャンパスライフ、大切な仲間、素敵な恋人、周囲からの羨望、約束された明るい未来、すべてがゆきの手中にあった。
そのすべてを失った。「K大卒」の金看板さえも、このまま何も手を打たなければ失うことになる。
泣き笑いしながら、不良在庫のショートケーキをあっという間に平らげた。
*
徹底的にどん底に落ちると、かえって開き直れるのかもしれない。
恋愛、というより「性愛」で大失敗をした上に、その他あらゆる問題が山積み状態。しかし、ひとしきり泣いて落ち込み現実を受け入れると、少し気持ちが軽くなっていることにゆきは気がついた。すでに失うものは何もない。誰の目を気にする必要もない。
元々ゆきが一人で過ごすのを苦にしない性格だったことも幸いした。小学生のころから、友達と長く一緒にいると気疲れして、静かに本を読む時間が恋しくなる。そういう子どもだった。
読書する時間は、掃いて捨てるほどある。他に煩わしいことのない今、勉強だっていくらでもできる。まずはちゃんと単位をとること。すべきことが目の前にあれば黙々と取り組むのはゆきの得意とするところだった。ボロボロな自分が、かろうじて地に足をつけ生活の再構築を始められた微かな感触に、ゆきは励まされる思いがした。
今の生活は、意外と悪くない。自分に言い聞かせる。勉強し、本を読み、ショートケーキの食べ歩きをする。むしろけっこう楽しいのかも。そう思えるくらいには、ゆきは孤独な日々を楽しみ始めた。