銀の羊の数え歌−10−-1
運というのは不思議なもので、いい時には驚くほどいいことが重なってくれる。空は一面晴れ渡り、仕事もテンポよくはかどり、心にも余裕が生まれる。けれど、その反面、悪い時には必ずと言っていいほど、さらに悪いことが起こるものだ。
課長から呼び出されたのは、その翌朝、いつも通り寮の食堂へ向かう途中のことだった。 「牧野君、ちょっといいですか?」
背中からの声に、やっぱりきたか、と心の中で舌を打ちながら、僕はしかたなく足を止めた。
「はい」
課長に続いて職員室に入ると、いつもならみんなまだ自分の席で、一日やることの確認なんかをしているはずなのに、今日に限って中には誰もいなかった。事前に、ミーティングでもしてたんじゃないかと疑いたくなるほど、いやなタイミングだ。
「いや、実は、昨日のことなんですが」
愛用の椅子に腰掛け、机の上に両肘をつくなり、課長は目の前に立つ僕を真っすぐに見上げた。彼が痩せているのはもちろん知っていたが、こうして改めて向き合ってみると、骨と皮しかないんじゃないかと思ってしまう。 四十代くらいなのだけれど、髪の毛に白いものも交じり始めているせいか、見ようによっては親父よりも上に見えそうだ。
「夜、柊さんが宿舎に行ったらしいですね」 心臓が一回り縮むのを感じながら、僕は、ぎこちなく頷いた。何をきかれるか覚悟していたとはいえ、面と向かうと、やっぱり厳しいものがある。
課長は、やれやれと首を振ると、煙草の煙でも吐き出すかのように、一言、言った。
「困るんですよね、そういうの」
そんなことを言われても、僕だって困る。突然やってきたのは柊由良の方で、僕じゃあない。それなのに、その言い方だと、まるで僕が彼女を誘ったみたいじゃないか。
けれど、課長はさらに続けたのだった。
「牧野君も分かっているとは思いますが、柊さんは障害者なんです。一見は普通に見えたとしても、やっぱり、私たちとは違う」
フレームなしのメガネの向こうから、キツネのように細く釣り上がった目が、僕の顔を見据える。まるで、心の中まで見透かされているようで、気分が悪くなってきた。
耐え切れず、僕がうつむいた時だった。
「で、柊さんは、どうして君のところへ行ったんですか?」
唐突に、課長は言った。
僕に手紙を渡すためです。正直にそう答えてしまえばそれでよかったはずなのに、どういうわけか、僕はそれをためらってしまった。 なんとなく、柊由良を裏切ってしまうような、後ろめたい感じがしたのだ。
「分かりません。すぐに寮へ送って行ったので」
僕は嘘をついた。
課長は椅子の背にもたれかかって、大きなため息をつくなり、
「とにかく」
と、言った。
「今後、柊さんとはあまり接触しないようにしてください。向こうが牧野君に近づいてきても、うまく避けること。いいですね」
「ちょっ、ちょっと待ってください」
と、思わず口をついて出た。言ってから、ああ・・・しまった、と後悔したものの、もう遅い。課長の神経質そうな顔が、みるみるうちに険しさを増していく。
「何ですか?何か言いたいことでも?」
ゆっくりと、身を乗り出すようにして、彼は言った。その強い口調からも、不機嫌さがもろに伝わってくる。
「黙っているだけじゃ分かりませんよ」
しかたなく、僕はセメントで固めたような口をひらいた。
「どうして、彼女が僕のところへきたというだけで、避けなければならないんですか?それって、無視しろって言っているようなものですよね。そんなこと、僕には……」
「どうしてだか、分からないと?」
その言葉の意味に、僕は息を止めた。
「まさか、君だって気づいていないわけじゃないでしょう」
僕は、黙っていた。
「柊さんは、君に特別な感情を抱いているんですよ。まわりから見れば、そんなことは一目瞭然。彼女を避けてほしいというのは、つまりそういうことなんです。分かりましたね」
「でも」
「牧野君」
言いかけた僕を、再び課長が遮った。