銀の羊の数え歌−10−-2
「こういうことを私が言うのもなんですが、柊さんはとても綺麗な子です。明るいし、素直な性格だし。あの子がもし、この寮ではなく、ちゃんと社会の生活の中におかれたのなら、きっと人気もあったでしょう。実際、以前ここに研修にきた人の中にも、彼女に複雑な気持ちを抱いていた人もいますし」
その言い回しに、ハッとして、僕は顔をあげた。課長の真剣な目が、射貫くように僕を見つめていた。
「柊さんを避けろというのは、なにも彼女のことだけじゃないんですよ。牧野君、さっきも言ったとおり、まわりから見れば、本当にそういうのは一目瞭然なんですからね」
ついさっき歩いてきた道をとぼとぼと下って、宿舎で普段着に着替えてから、僕はその足で愛車の停めてある駐車場へ向かった。
外はどこも、昨晩の雨のせいで乱れ切っていた。思ったとおり、桜の木々はほとんど裸になり、道の隅や駐車場には、美しかった花びらが、見渡せる限り一面に散っている。僕の車のドアや窓にも、何枚か張り付いていた。 ジーンズのポケットから、おもむろにキーを取り出して鍵穴に差し込む。そして車のドアをあけたところで、僕はふと手を止めた。
坂の頂上にある寮が、ここからでもよく見える。多分、今頃みんなはいつものようにわいわい騒ぎながら、朝食をとっているに違いない。そう思ってから頭に浮かんだのは、柊由良のことだった。
結局、昨日は目を覚ました彼女に会うことは出来なかったが、今はどうなのだろう。ちゃんと元気なって、食堂に行っているのだろうか。それとも、まだベッドの上で眠っているのだろうか。いや、ひょっとすると畑野さんと一緒に、病院にいるのかもしれない。検査結果をきくために。
車に乗り込んでエンジンをかけると、僕は椅子にもたれかかったまま、瞼をとじた。
別にきつく怒鳴られたわけでもないのに、さっきの課長の言葉が、燻る炎のように耳元に余韻を残していた。
「まぁ、昨日は色々あって疲れたでしょう。今日は仕事の方はいいから、宿舎に戻って休むなり、いったん家に帰ってゆっくりするなりするといいですよ。明日から、またお願いしますね。それと、くれぐれも、柊さんとは距離をとってくださいよ。いいですね」
そんなこと出来るわけないじゃないか、と僕は心の中で唸った。あれだけ人なつこい彼女と距離をとるには、あからさまな態度で避けるしか方法はない。けれど、ことあるごとにそんなことをしていたら、絶対に柊由良を傷つけてしまう。
だいたい、課長は何を考えているというのだろう。僕らの態度を見たら、一目瞭然だと言っていた。柊由良の気持ちは、まぁあの手紙をもらった後だから僕も分かる。
課長の勘は正しいと認めよう。しかし、そこで僕の気持ちまで勝手に決めつけられては、困るのだ。 確かに、柊由良はとても綺麗な人だと思う。瞳も大きいし、それを縁取ったまつげも長いし、肌の色もまるで新雪みたいに白いし、スタイルだっていい。中でも、笑顔はとびっきりに輝いている。はっきり言って、へたな芸能人よりもずっと美人だとも思う。
でも彼女は……。
思いかけて、僕は邪念を吹き飛ばすように、かぶりを振った。
ほんの一瞬だけれど、自分を恥じるには十分なことを、考えてしまった。
僕は思い出したようにシートベルトを締めると、ギアを変え、アクセルを踏んだ。
余計なことを考えている暇なんて、ないのだった。
今日は、せっかくもらった休みを利用して、琴菜に会いに行くと決めていたのだ。
あれから一度も電話をしていなかったから、なんとしてでも、今日のうちに仲直りしなければならない。
「俺が好きなのは、柊由良じゃない」
僕は自分に言い聞かせるように呟いた。 「俺の彼女は、亘理琴菜なんだ」
曲がりくねった一本道をとばし、山のふもとまでくるとPHSも電波を取り戻していた。 右手でハンドル握り、もう一方の手にPHSを持つ。さっそく琴菜の携帯にかけてみる。 けれど、数秒の沈黙をおいて流れたのは、留守番電話サービスのアナウンスだった。
僕は、舌を打って電話を切った。
しかたない、とりあえず真壁のところへ行ってみるか、と僕は思った。ひょっとすると、琴菜がいるかもしれない。ここからだったら、『OZ』まで三十分とかからないはずだ。僕はアクセルをいっぱいに踏み込んだ。